シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

「ことばの宝石箱」の中に入れたい言葉

      ※孫が小さかった頃、一緒に作った指輪やネックレス

 

十何年も前のことになりますが、ミクシイというSNSの中で、

一つのコミュニケーションサイトを開設したことがあります。

「ことばの宝石箱」というタイトルで、それは今も存在して

います。ただ実態は閉店開業状態の名ばかりの管理者。猛省です。

過去記事です。↓

fantsht.hatenablog.com

 

長い休業期間の間には、宝石箱に入れたい“ことば”も少しずつ増え、

出番を待っています。これから徐々に集まったことばの宝石を

選りすぐり、ホットな言葉を求めている方へ届けられるように、

更新していけたらいいなと考えています。

 

今日はその中の一つを紹介したいと思います。

愛読書『私の部屋のポプリ』(熊井明子著/河出書房新社)の

の中からの引用です。

 

「欠点といふものは その人間の性格の中で

丁度 指環(ゆびわ)の玉のやうに突出している」

    ※画像はフリー素材「イラストや」さんから拝借しました。

 

小説家 中里恒子さんの随筆集の中の一節だそうです。

 

これはどういう意味なのでしょう?

自分の欠点や弱点というものは、なかなか気づきにくいもの。

それが指環の玉のように突出しているというのは、欠点が

表に現れている、あるいは、人にはよく見えているという

意味にも取れます。「気づいてますか、あなたの欠点を」と。

そういうことを暗示してくれているのだとすると、なかなか

シビアな視点。考えさせられますね。

 

名言は指輪と自分の欠点を結びつけるという、なかなか

思いつかない発想を教えてくれます。これもまた、ワード

コレクターの醍醐味と言えそうです。

自分の物差しを見直そう

   川崎市・長尾山妙楽寺あじさい寺)にて

 

星野富弘さんの詩、“雑草 ~ツユクサ~”から。

 

  もともとここは

  草はらでした

 

  そこに人間が家を建てて

  「雑草が 生えて困る」

  なんていっちゃって

   おかしいねえ

        星野富弘著『花よりも小さく』(偕成社)より

 

これは雑草の“ぼやき”でしょうか。なかなか意味深長です。

 

この季節、私が住むマンションの東側にも十薬(ドクダミ)が

所狭しと生い茂ります。よく見れば十字架にも似た白い花。

清楚で可愛いらしく、十薬の名の通り薬効もあるそうですから、

もっと人に喜ばれて当然のはずなのに、特有の青臭さと繁殖力の

凄まじさに、つい嫌われてしまう悲しい存在。 ⇓こんな感じです。

 

雑草からの一言、「おかしいねえ」の“ぼやき”には、人間の

エゴイズムが凝縮されているようで興味深いですね。

 

それぞれ、人には物事の価値基準を測る物差しがあります。

そして自分の物差しは正しいはず‥と信じて行動します。果たして、

それは正解でしょうか? 自己中心の種というものは、その自分の

物差しが絶対だと思う辺りから、じわじわ育っていくように思うのです。

 

物差しというものは、使えば使うほど手になじんで、持ち主の癖が

出てくるもの。曲がったり、歪んだり、すり減ったりしていても、

案外、気づきにくいものです。物差しを当てた時に、「あれ?」

と、ちょっとでも違和感を感じたら、見直すことが肝要ですね。

そして、もう一つ大切なことは、他の人の物差しにも心を向ける

謙遜な心です。相手の立場に立って物事を考えることを習慣に

すれば、自己中心の種も成長せず、自然消滅することでしょう。

 

陶器の浮き玉を描いてみた

2年前、時間の都合が合わず、長いこと通っていた絵画教室を

退会しました。以来、絵筆より手軽なパステル画ばかり描いていた

せいもあって、久しぶりに開けた絵の具箱の中は悲惨なことに!

 

何本かのアクリル絵の具は、すでに固まっていました。

よく使う色、好きな色が駄目になっていたのは、非常にショック。

画材は新しいうちに使い切るべきだと反省しきりです。

そんな反省もあって、本日は絵画サタデーに。

 

アクリル画はボードやキャンバスがなくても、やや厚めの紙が

あれば描けるので、カード用のケント紙に描いてみることに

しました。ベースの色を塗り、カット集の図案をアレンジして

レモン? ゆず? をチョコチョコッと。 乾きも早く、アッと

いう間に出来上がり。これならカードを量産できそうです(*^^)v

 

以前、絵画教室で描いた浮き玉とドライフラワー

中途半端のまま放置していた作品ですが、少し手直しをして、

一応これで完成ということにしました。

 

婚家では法事の度に、宮城県の松島にあるホテルを利用して

いました。そのホテルの売店にはいつも可愛い陶器の浮き玉が

並べて売られていて、行く度に一つずつ買い集めていました。

そうして集めた浮き玉ですが、孫たちが来て、お風呂に入る時に

浴槽に浮かべるくらいしか出番がありません。せっかく集めた

浮き玉ですし、絵のモチーフにしても面白いかなと‥。

 

身近にある素材は、すべて絵のモチーフになります。せっかく

揃えた画材を生かすためにも、まめに絵筆を持ちたいものです。

 

ホタルブクロ、そして「誰がために鐘は鳴る」

 

 

マイガーデンは今、ホタルブクロが咲き競っています。

昔は花の中にホタルを入れ、透けて光る様子を楽しむ花遊びが

あったとか。ホタルブクロの名は、そこから来ているとも

言われます。英語でベルフラワー(Bellflower)と言うように

釣鐘草とも言われる花。提灯、ランプシェードのような花の形から、

ホタルを入れてみようと思いついた人がいたのでしょうか。

ホタルを見かけない今となっては、貴重な花遊びと言えそうです。

 

提灯と釣り鐘。形はよく似ていても、「提灯に釣り鐘」は

材質も重量も違うので、釣り合いが取れないものの例えとして

使われるという、なかなか面白い取り合わせの諺ですね。

 

さて、「鐘」という言葉から発想を飛ばしてみることにします。

17世紀のイギリス宗教詩人、ジョン・ダンの詩の一編を。

 

 「誰がために鐘は鳴る

 人は離れ小島ではない
 一人で独立してはいない
 人は皆大陸の一部

 もしその土が波に洗われると
 ヨーロッパ大陸は狭くなっていく
 さながら岬が波に削られていくように
 あなたの友やあなたの土地が
 波に流されていくように

 誰かが死ぬのもこれに似て
 我が身を削られるのも同じ
 なぜなら自らも人類の一部

 ゆえに問う無かれ
 誰がために弔いの鐘は鳴るのかと
 それが鳴るのはあなたのため
           (浜野聡訳)

 

アーネスト・ヘミングウェイ著「誰がために鐘は鳴る」は、

このジョン・ダンの死生観を表すフレーズから取ったもの

だと言われています。

大まかに意訳すると、こんな感じになるでしょうか。

 

 人は一人ではない。

 この地上全体の中の一部である。

 同じように、誰か(の死)と自分(の死)はつながっている。

 だから、弔いの鐘が誰のために鳴るのかと問うのはやめよ。

 それは自分のためにも鳴っている鐘なのだから。

 

今、世界中の人が非人道的な侵略戦争に苦しむウクライナ

人々の映像を目にし、誰もが、このゆゆしき戦争犯罪に終止符が

打たれることを願っています。どんなに熱い思いを持ってしても、

正義の槍をかざす術も力もありません。そんな無力感、焦燥感を

覚える一方で、心底、自分自身の問題として捉えきれていない

歯がゆさやジレンマを覚えている人は多いと思います。

 

昨日も今日も、メランコリックな報道が繰り返されています。

誰かの死が、また誰かの悲しみが、自分と大きく乖離したものと

して捉えるのではなく、少しでも苦しみが癒えるように、痛みが

和らぐように、心に平安と慰めがもたらされるように、そして、

世界中の平和を願う人たちの祈りが、希望の光となって届く

ように願わずにはいられません。

 

誰がために鐘は鳴る」という短い一節が、人類一人ひとり

への警鐘でもあることを、深く考えさせられました。

 

可憐なホタルブクロから「誰がために鐘は鳴る」へ、思いがけない

方向へ話が飛躍してしまいましたね(^o^;)。

今時、ホタルを見つけるのは難しいので、花の中に小さな豆電球でも

照らし、昔の花遊びを再現してみる。そんな風流もありですね。

 

 

 

 

 

レンテンローズ “私の心を慰めて”

 

仕事や用事がない日を除き、ほぼ1万歩のウォーキングを

日課にしている夫に比べ、ほとんど外へ出かけない私。

歳のせいもあるでしょうが、階段の上り降りが以前より

遅くなり、やや長い階段だと途中で一休みすることも

多くなりました。これはフレイルの兆し? 要注意です。

 

気分転換のため、老体に鞭打つため、重い腰をあげるのも

たまには良いかと、少し遠回りして裏山へ散歩に出かけました。

あまり通ったことのない細道を歩いていくと、暗紫色の

可愛い花が咲いているのを見つけました。記憶によれば、

これはレンテンローズ。私の好きなクリスマスローズ

仲間と言っても良いでしょうか。

 

クリスマスローズは文字通り、クリスマスの頃に咲きますが、

レンテンローズはレント(キリストの復活祭の前の四旬節)の

季節に咲くことから名付けられました。俗に、ひっくるめて、

クリスマスローズと呼ばれているようです。

 

花びらのように見えるのは萼(がく)で、中心部にある線状の

ものが花なのだとか。なかなかユニークな形状の花ですね。

クリスマスローズの花色(萼弁色)は白、レンテンローズは

赤紫、ピンク、白、緑色など、花色が豊富にあるようです。

 

ネットでレンテンローズの花言葉を調べると、「私の心を慰めて」。

古代ギリシアでは心の病の治療に使われ、根に精神安定の薬効が

あるとされていたそうです。そういえば、以前、植物博士の孫が

「根は有毒性だから気をつけてね」と言っていましたっけ。

 

「私の心を慰めて」と、うつむき加減にアピールする花たちが

いっそう、いじらしく、可憐に見えてきて、次の聖書のことばを

かけてあげたくなりました。

 

何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる

祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知って

いただきなさい。そうすれば、すべての理解を超えた神の平安が、

あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

           ピリピ人への手紙 4章6―7節

オシム語録 「水を運ぶ人」

サッカー日本代表監督、イビチャ・オシムさんが、5月1日、

お亡くなりになりました。ふさわしい言葉が見つからないのですが、

得も言われぬ喪失感、寂寥感に包まれています。

 

監督としての手腕は言わずもがな、ちょっと天邪鬼にも聞こえる

けれど、ユーモアと機知に富んだ独特な言い回しが、サッカーファン

のみならず多くの人を惹きつけ、病で退かれた後も変わらぬ人気を

集めていたのでしょう。日本代表戦後のインタビューに真摯に答える

オシムさんの戦評を、毎回、心待ちにしていたので、それがもう

叶わないのは残念でなりません。

 

オシムさんのことを哲学者とか心理学者とか評する人もいますが、

それほどオシムさんの言葉には、経験に裏打ちされた深い洞察力、

あふれる知恵と知識が詰め込まれていました。オシム語録といった

本が何冊も出版されていることからも明らかです。会う人すべてに

影響を与えるサッカーの智将。日本サッカーの発展に大きく寄与した

功績は、いつまでも人の記憶にとどまるに違いありません。

 

オシム語録と言われるもののうちで、私が最も印象に残っているのは

「水を運ぶ人が必要だ」というフレーズです。通訳を務めていた

千田善さんの著書オシムの伝言』の中の一節を引用してみます。

 

オシム監督がよく使う表現に「水を運ぶ選手」というのがある。

ゴールを決めた選手ばかりに注目するのではなく、目立たないが

大事なサポートをする「汗かき役」あるいは「汚れ役」の選手を評価

する時に使う。‥‥サッカーでは「水を運ぶ選手」ばかり集めても

つまらない。「水を運ぶ選手」と「エレガントな選手」をうまく

組み合わせて初めて、良いチームができる。‥‥いつもクールで、

クレバーで、正確なテクニックで効果的なプレーができる――それが

サッカーにおける「エレガント」ということだ。

‥‥「おいしい水でなければならない。泉からわいたばかりの、

冷たい水だ。日本にもワサビを栽培する泉があるだろう。ああいう

ところの水だ」

千田さんはこうまとめています。

結局、オシムさんの言いたかったことは、次のようなことだったの

かもしれない。「冷たくておいしい水をたくさん、エレガントに運べ!」

 

海外サッカーの模倣ではない、日本サッカーの「日本化」を掲げ、

世界基準を目指しつつも、日本人の長所をチームに落とし込む。

このテーゼがあってこそ、今の日本サッカーの地位が確立したと

言っても良いのではないでしょうか。

 

ふり返れば、私がサッカーを見始めるきっかけを作ってくれたのは

オシムさんだったのかもしれません。夫が「中央大出身の良い選手が

いる」と教えてくれたのが、当時、川崎フロンターレでプレーしていた

中村憲剛選手。オシムさんが、その憲剛選手の才能を見出し、日本代表に

抜擢。それ以来サッカーの面白さにに嵌り、現在に至るというわけです。

 

中村憲剛さんの引退セレモニーでは、オシムさんの近影がメッセージと

共に映し出されました。「憲剛は日本サッカー界の至宝」というような

称賛の言葉を贈っていたと思います。きっと憲剛さんはオシムさんに

とって、おいしい水を運ぶエレガントな選手の一人だったのでしょうね。

 

サッカーというスポーツの枠だけでなく、人生のあらゆる局面に

向き合うためのヒントを与えてくださったオシムさんに、心から感謝を

申し上げたいと思います。オシムさん、どうぞ安らかに‥。

北の果ての海に聞こえる[岩尾別旅情」

4月23日、北海道知床半島沖で小型観光船が消息を絶ちました。

26日現在、乗船していた半数以上の方が、まだ発見されていません。

この時期の北の海の水温を考える時、状況はいかに厳しいものかが

わかります。どうか全知の神さまが、この苦境の只中におられる

方々と共にいてくださり、支え、力づけてくださいますように‥。

 

今、私の心の中は、一つの歌がこだましています。

学生の頃、歌声喫茶で覚えた「岩尾別旅情」という歌です。

作詞・作曲は、さとう宗幸さん。さとうさんとは面識はありませんが、

大学の同期生です。大ヒットした[青葉城恋唄]は、もちろんですが、

この「岩尾別旅情」も、地味に歌い継がれている素晴らしい歌です。

 

15年前、北海道旅行をした時、ちょうど同じように、ウトロから

知床半島の沖へ出る船の中で「岩尾別旅情」が流れてきました。

聴き覚えのある、懐かしい歌詞とメロディに、心が震えるほど

感動したのを思い出します。紺碧の海は荒々しく、悠々と、自然界を

支配しているかのようでした。

 

今、この曲を取り上げるのは、失意の中で不安と焦燥を覚える関係者に

とって、気持ちに障る、デリカシーを欠いたものになるのでは‥という

ためらいもありましたが、あえてアップすることにしました。

皆さまが心を合わせ、歌詞を読み、映像を心に写しながら、北の果ての

海に心を向けてみてくださいますように。お祈りいたします。

 

(7) 岩尾別旅情(知床) さとう宗幸N190已無2作版 - YouTube