シャロンの薔薇

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シャロンの薔薇。

はてなブログ」へ引っ越したのを機に、タイトルも

一新しようかと頭をよぎりましたが、「シャロンの薔薇」

への思い入れが勝り、タイトル継続ということで

落ち着きました。

なぜ「シャロンの薔薇?」にこだわるのかを挙げてみます。

まず、花の中で薔薇がいちばん好きだということ。

薔薇の香りが好きなこと。

表情、色彩の豊かさが、絵を描くモチーフとして最上で

あること。

「私はシャロンのばら、谷間のゆり。」

        (旧約聖書 雅歌2章1節)

のフレーズから、ロマンが掻き立てられることも大きな

理由の一つ。因みにこれは、田舎娘と羊飼いでもある

王様との会話の一部です。二人は草原のような場所で

出会い、ことばを交わす間柄になったのでしょう。

少女は「私はシャロンのばら、谷間のゆり。平凡な

野の花です」と身分の低さを告げます。

二人の会話は続き、「そうです。でもあなたは茨の中で

いちだんと輝く、ゆりの花なのですよ」と王様。

若い男女の恋の始まりにも見えて、実は罪深い人間と、

聖なる神様の構図と見ることもできます。神様という

遠く離れた方が、この小さな私をどう見ていてくださる

のか。自分の存在価値を知る、とても大切な一場面の、

ロマンチックなフレーズなのです。

聖書には“シャロンの薔薇”と記されていますが、実は

薔薇ではなく、パレスチナシャロン平原に咲く

木槿(むくげ)の花、あるいはサフランとも言われ

ますが、花を特定するのは無粋なので、ここはサラリと

読み流しましょう。

 

風が野の花の香りを運ぶように、日々の暮らしの中にも

フレグラントな「ことば」を注ぎ込みたい。そんな、

ささやかな思いを込めて、「シャロンの薔薇」を綴って

いきたいと思います。

木の影に憩う

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梅雨が明けてから、連日の猛暑にバテ気味の今日このごろ。

用事でやむなく出かける時は、日陰のありがたさに

感謝、感激です。

 

過去記事にも書きましたが、日陰と聞くと、あることばを

思い出します。

『心の部屋を空けて』(堀 肇著/いのちのことば社)という

本の中で、内気な性格の人を「木の影のような人」に例えて

いるのが、とても斬新に思えるからです。

 

内気であることには、何か言い知れぬすばらしいものが

あります。私たちの文化は内気であることを長所とは

考えていません。むしろ単刀直入であり、相手の目を見、

自分の思うところを語り、恥じることなく自分のことを

打ち明けるようにと奨めます。‥それは影のない木の

ようなものです。しかし、内気な人は長い影を持って

います。内気な人々は敬虔で尊敬に満ちた友情へ、

そして愛の内に何も言わずに、ただ傍らに留まることへと

私たちを招いているのです。(※ ヘンリー・ナウエン著

       『今日のパン、明日の糧』からの引用文)

 

「明るく、元気で、はきはきと」は、誰しも憧れる

生き方ですが、スカッとして一点の惑いもない代わりに、

余韻は今ひとつ。そういうところを<影のない木のような

もの>と表現したのでしょうか。

 

<内気な人は長い影を持っています>

内気な私はこの一文に、ホッと救われる思いがします。

影の中に、その人の個性や内面性が秘められているなら、

引っ込み思案の私でも誰かの、また何かの役に立てるかも

しれないと。

 

私たちは人生で疲れたとき、渇いたとき、そこに行けば

ほっとする人、それこそ、「愛の内に何も言わずにただ

傍らに留まることへと私たちを招いている」人を必要と

します。内気な人はそのような特性を持っているというの

ですが、そういう人は「木の影のような人」と言っていい

でしょうか。 (堀肇著『心の部屋を空けて』より引用)

 

そこにたどり着けば安らぎ、憩うことができる場所。

疲れた人、渇いた人が安心して休息できる、長い木陰を

伸ばしていけたら素敵だと思います。

 

あなたは弱っている者の砦、

貧しい者の、苦しみのときの砦、嵐のときの避け所、

暑さを避ける陰となられました。

   (旧約聖書 イザヤ書25章4節)

 

思いを新たに ~引っ越し完了~

f:id:fantsht:20190731225437j:plain*  Yahoo!ブログからHatena Blogへの引っ越しが、ようやく終了しつつあります。  アナログ人間には、「手順に従って」と言われても、なかなか難しい。            「こうかな?」「ああかな?」と迷い、悩みながら、     なんとか「記事を書く」ところまでたどり着きました。  「所変われば」ではありませんが、それにしても勝手が違うことに戸惑っています。 操作に慣れるためにも、ふだんより更新頻度をアップしようと思っています。 まずは、引っ越しのご挨拶ということで‥。 これからも、ブログ「シャロンの薔薇」をよろしくお願いいたします。

しおん

レヒットラオット!(また会いましょう!)

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                     5月中旬  向ヶ丘遊園の薔薇園で撮影
 


2008年から綴っているYahoo!ブログが今年いっぱいで
サービス終了とのこと。はてさて、これからどうしようと
悩んでいるところです。
 
 
64日から他ブログへの移行手続きが開始するそうですが、
アナログ人間にはちょっと面倒な作業でもあります(-_-;) 


先月97歳で亡くなったドリス・デイの「ケ・セラ・セラ」
ではないけれど、♫なるようになるわ~‥ と風まかせの
心境でいます。
 
月に一度前後のスローペースの更新ですが、それでも
かなりスパイシーな生活のエッセンスになっていて、それが
なくなってしまうのは淋しい気もするので、マイペースを
保ちつつ、これからも発信していけたらと思っています。
 


あれこれ締めの挨拶を考えていると、偶然にもピッタリの
ことばを発見! 

「レヒットラオット!」(lehitraot

ヘブライ語で「また会いましょう!」の意味だとか。
今日のデボーションで覚えたばかりのことばです。

デボーション(devotion)とは英語で「献身」という意味。
教会では、もっと限定された意味合いで使われています。
簡単に言うと、「日曜日の礼拝や平日集会とは別に、

一人ひとりが毎日、時間を決めて聖書を読むこと」です。


今日は士師記旧約聖書)を読みましたが、その注解書の
中に「レヒットラオット」が出てきました。なかなか綺麗で
素敵な響きだなと思って、ちょっと拝借しようかと‥。
ヘブライ語、まったく知らないし、使い方を間違えて
なければ良いけれど‥と心配しつつも捨て難く、タイトルに
使わせていただきました。
 


まだ、これから先のことは何も決めていませんが、
ブログ「シャロンの薔薇」はこの記事をもって、一応、
一区切りにしようと思っています。
引越し先が決まり落ち着きましたら、また書き始めますので、
どこかでお目に留まりましたら、お立ち寄りくださいませ。

長い間、本ブログを訪ね、拙文にお付き合いくださった皆様に、

感謝とお礼を申し上げつつ‥。

「レヒットラオット!」 また、お会いしましょう!


祈りが始まるとき

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日本ではイースター(復活祭)はあまり馴染みのない行事。

クリスマスがイエス様の誕生日なら、イースターは復活記念日。

どちらも、教会では同じくらい大切な日です。毎年イースター

の日が変わるのも、なかなか浸透しない一因かもしれませんね。


豆知識として―。

春分の次の満月から数えて最初の日曜日がイースター

因みに今年は421日でした。


この日、私が通う教会では、午後にオープンチャーチが催され
ました。やや趣きを変え、この日は教会牧師による文化講演会。


テーマは「祈りが始まるとき」。

~人はなぜ祈るのでしょうか あなたは祈りを知っていますか~


特定の宗教を持っていなくても、人には本能的に祈るという
性質があるのではないでしょうか。祈るというよりは、期待を
込めて願う、望むという漠然とした、あるいは無意識の行為と
言えるかもしれませんが、それはなぜなのでしょう。
“テツandトモ”風に言うなら、「何でだろう~??」


牧師さんが的を突いた例えを話してくれました。

「宛名を書かないで、手紙をポストに入れても届きません」

 

この例えは祈りの本質をよく言い表していると思います。

便箋にたくさんの願いことを書いて封筒に入れても、宛先不明

なら届くはずがありません。漠然とした対象に、ただ必死に
思いを訴える一方通行的な祈りは、虚しさだけが残ります。


余談ですが、高校生の頃、部活日誌の端っこに「「神さま、

仏さま、加山雄三さま‥、どうか願いを叶えてください」などの
落書きが書いてありました。当時、若大将が大人気でした(^_^;)

「念ずれば通ず」ですか。乙女心の切なさは伝わってきますが。

 

一方、聖書における祈りは、人と神、双方向の祈りです。

神様がどのような方であるかを知っているから、全幅の信頼を

もって心の細部まで注ぎ出すことができます。神様もまた人の
祈りに耳を傾け応答してくださいます。


神様のかたち(像:イメージ)にデザインされ、その鼻に神様の

息(霊)を吹き込まれた人間は、神様と交わる特権が与えられた
と創世記に書いてあります。だから双方向の祈りができる。
すばらしい恩寵です。

誰に教えられたわけでもないのに、私たちには咄嗟に嘘をつい

たり、言い訳したり、誰かのせいにしたりする弱さを持っていま
す。一点の濁りもない清廉潔白な人など一人もいないでしょう。
聖書はその弱い性質を原罪言っています。その原罪を認める時、
私たちは初めて神様に祈ることを始める―。


「そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。」

                 創世記426


人はなぜ祈るのか? あなたは祈りを知っているか?

クリスチャン歴23年。初心に返り、この問いに向き合いたいと

思います。


インナーピースを保って

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長いこと自分史を綴っています。
所属するサークルでは、本編だけでなく、その年の重大ニュースから
各々が感じたことを特集記事として書いています。


6月発行の記念誌に間に合うよう、2018年のニュースを振り返って
みました。話題が多すぎて絞るのが一苦労です。


読売新聞によれば上位に平昌五輪、冬季最多13メダル獲得。
フィギュアの羽生結弦選手の連覇、最年少での国民栄誉賞受賞。
そして西日本豪雨、スポーツ界で不祥事続出などなど‥。


たくさんあるニュースから、最も印象に残った話題を選ぶとしたら、
私は女子テニス、大坂なおみ選手の全米オープン優勝でしょうか。
自他ともに認めるサッカー狂の私。実はテニスも大好きです🎾
そんな理由もあり、今年の特集記事は表彰式での大坂なおみ選手の
スピーチに焦点を当てて、書いてみようかと構想を練っています。
まだ大筋ではありますが、さらっと書き留めておこうと思います。


優勝までのプロセスに必要だったもの――。
大坂選手はそれを「インナーピース」という言葉で表現しました。
「インナーピース」があると、雑念が消え集中しやすいのだと。


「インナーピース」
日本語では「内なる平和」「平常心」などと言い換えられるで
しょうか。“雑念”というのが本当に厄介なもので、一瞬でも
勝ちたいとか、勝たねばという思いがよぎると焦りが生まれ、
次の一球、一手の妨げになったりするのです。同じようなことが

徒然草』の中にも書いてあるようです


「勝たんとして打つべからず。負けじと打つべきなり。』


勝とうと意識すれば、焦りや闘争心が湧いて心が騒ぐ。
負けないように平常心を意識すれば、ゆとりが生まれる。
要は気持をコントロール出来るかどうかで、事がうまく進む
ということなのでしょう。


新約聖書・共観福音書(マタイ・マルコ・ルカ)に出てくる、
ある有名な場面があります。


湖上で嵐に遭い、舟が沈みそうになった時、船尾で眠っている
エスを叩き起こし、「先生、私たちが死んでもかまわないのですか」
と慌てふためく弟子たちの姿。決してよそ事ではなく、非常事態が
起こると平常心など、どこへやら‥の「あるある話」です。


自然界をも支配できる神様が一緒にいるのに、恐怖心に負け、心の
在り処が崩壊してしまう。平常心が有るか無いかは、先に進めるか
否かを決定づけることなのかもしれません。


大坂選手が「インナーピース」という言葉を発信してくれたおかげで、
心の舵取りがいかに大切かを、しっかりインプットできました。
大坂なおみ選手、これからもインナーピースを保ちながら、破竹の
快進撃を続けてほしいものです。

※写真は先日、やっと完成にこぎつけた一人用鍋と小鉢。
 無心になって土を捏ねることは、インナーピースの鍛錬に
 役立ちそう‥という、こじつけで(~_~;)


最後の砦となる

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先日、友人から借りて読んだ一冊の本を紹介します。
『あなたを諦めない』~自殺救済の現場から~
                               (いのちのことば社
著者は和歌山県の白浜バプテスト基督教会の、藤藪庸一牧師。


重いタイトルですが、清々しい読後感のある良書。
幾例もの記録を通して、孤独の隣に、絶望の向こうに、最後の
砦となってくれるものがある‥。“諦めなくて良い”という
一縷の希望が見えるからかもしれません。

 

自殺の名所としても有名な南紀白浜の三段壁。この場所には
「いのちの電話」の看板が立てられているそうです。電話は
NPO白浜レスキューネットワークの活動もしている藤藪牧師に
つながります。人は崖に立ち、今まさに飛び降りようとする
瞬間にも、誰かに自分の存在を知ってほしいと願う意識が
働くものなのでしょうか。受話器の向こうから、「助けて
ください‥」という悲痛な叫びが後を絶たないことからも、
それがよく分かります。

藤藪牧師が活動を始めてから、昨年末までに救助した人は

905人に上るそうです。連絡を受け三段壁に駆けつけ、自殺

志願者を保護し、共同生活を通して彼らに生活再建の道を
指し示すという、当事者でなければ分からない、骨の折れる
支援活動です。

皆が皆、立ち直って人生をやり直しているわけではなく、
同じ失敗を繰り返す人、去っていく人のことも正直に
綴られています。一度、人生を諦めかけた人とどう関わり、
自立への道につなげていくか。ゴールの見えない道を
手探りで進んでいくような、活動の難しさを知るにつれ、
藤藪牧師の苦悩と葛藤が胸に迫ります。

「あなたの隣人を愛しなさい」
よく聞く聖書のことばですね。隣人とは誰でしょうか?


「死にたい」と訴え続けてきた30年来の友人がいます。今は
手紙や電話のやりとりだけですが、電話が来るのは、いつも
極限状態の時。2時間、3時間に及ぶこともあります。
もし私が受話器を置いたらどうなる? そう思うと怖くて
無下に切ることもできません。次第に手に負えなくなり、
教会の牧師に委ねることにしました。今は時間を決めて
対応していただくことがほとんどです。

友人は以前、同じマンションの住人でした。年長の私を頼り、
私が行く先々に同席するようになりました。絵画教室や教会
にも集いました。ご主人の転勤で遠方へ引っ越すまで、
わずか1年ほどの短いお付き合いでしたが、彼女の人生に
とって最も輝かしい期間だったようです。
複雑な人間関係に疲弊し心を病み、パニック発作を頻発。
その度に心の闇が深くなっていく印象でした。ただそれは、
光は闇より強いということを実感する時でもありました。
闇に押しつぶされそうになっても、人は光の方向へと引き
寄せられるのです。「『「もうダメだ」と思った時、何故か
あの頃のキラキラして楽しかった場面が浮かんできて、心が
落ち着くの」。彼女がよく口にすることばでした。人生の
ハイライト‥、彼女にはそれが最後の砦なのだと思います。

正直、時間を割かれるし、負の連鎖で気が滅入るし、申し訳
ないけれど勘弁してほしいと何度、思ったことでしょう。
でも、「あなたの隣人を愛しなさい」なのです。藤藪牧師の
ことばが心に突き刺さります。

「ここで試されたのは、牧師としての使命感でも信仰でもない。
 神が人間に与えてくださった『良心』だった」

この厄介な相手を諦めないという良心。この良心も神様が
くださる賜物です。これを手放すことは、神様の求めに応え
ないこと。良心は、しっかり握っておくもの、手放しては
ならない賜物なのだとあらためて思いました。

あなたを諦めない‥
この思いが伝わる時、その人の隣人になれるのだと思います。
隣人の存在は、その人にとっての最後の砦にもなるのだと。
私にできることは、彼女を諦めないこと。ただ彼女のために
祈ること。ただそれだけですが、これからも心に覚えて祈り
続けるつもりです