シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

パワー全開、向日葵の似合う季節に

 

 ここ数年、暑さの記録更新が続いています。生まれが北国だった

こともありますが、私が子供の頃は扇風機すら珍しく、窓を開け放し、

ひたすら団扇で扇ぐのが当たり前だったのですが…。

 

 ベランダの鉢花も、心なしか元気がありません。人間と同じ、

連日の猛暑にげんなりしているのかもしれませんね。

 それでも、向日葵だけは “私の季節よ!” とばかりに、背筋を

スッと伸ばしてキリリと咲き誇っています。やはり夏に最も似合う

派手やかで、たくましい花。パワーをもらえますね。

 

 2年前の夏にもブログに向日葵の記事を書きました。絵も同じ(^o^;)

志半ばで病に倒れ、天に召された宣教師さんの礼拝説教の話です。

「向日葵のような人」という題で、聖書から語ってくださいました。

 

fantsht.hatenablog.com

 

 どうしようもない困難な状況に置かれても、イエスさまの光を

求めて歩むクリスチャンの姿勢を、向日葵の特性に重ねて語られた

ものでした。

 

 私の目はいつも主に向かう。

 主が私の足を罠から引き出してくださるから。

                 詩篇25篇15節 

 

 「ひまわり」を「向日葵」と書くのは、ひまわりが太陽の動きに

合わせて向きを変えるというのが由来になっているそうです。因みに

「葵」の字には、花が四方に開いて回る植物という意味があるのだとか。

英語ではsunflower。「向日葵」の当て字は、さもありなん…ですね(*^^*)

 

 ところで、2年前に描いた絵に少し手を加え、8月22日から開催中の

パステル画・ミニ企画展に展示しています。

たった一輪の淋しい絵ですが、タイトルだけは「パワー全開」と盛って

みました。タイトル負けしないように、夏を乗り切りたいものです。

わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。

 

 

 ぶどうが美味しい季節になりました。芳醇な味と香りの

ぶどうそのものも好きですが、私はぶどうをモチーフにした

器や小物も好きで、ぶどうをあしらったオブジェがけっこう

並んでいます。これまで油彩、水彩、アクリル、パステル…、

様々な画材で絵にも描きました。一粒ごとに趣が違うところが

面白いのかもしれません。

 

 教会では30年ほど前から看板の奉仕をさせていただいて

いますが、ぶどうにまつわる聖句や絵を掲げることも多々

あります。すでに現物はありませんが、この聖句もその一例。

グルっと色鉛筆で囲んだぶどうの絵を思い出します。

 

  わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。

  人がわたしにとどまり、

  わたしもその人にとどまっているなら、

  その人は多くの実を結びます。

  わたしを離れては、

  あなたがたは何もすることができないのです。

               ヨハネ福音書15章5節

 

「わたし」(イエスさま)は、「ぶどうの木」。

「あなたがた」、「(その)人」(イエスさまを信じる人々)は、「枝」。

 

 もし枝が木につながっていなければ、いつかは枯れてしまい、

ぶどうの実をつけることはできません。「つながり」がいかに大切で

あるかを教えてくれます。

 

 こちらは週報のカット。通常はモノクロですが、ちょっと色を

塗ってみました。たまに色を変え、一人で塗り絵を楽しんでいます。

 

 私たちはコロナというパンデミックを経験し、今も尚、終息には

至っていません。不要不急の外出禁止が謳われ、街には人っ子一人

いなかった時期もありました。人との「つながり」が分断された、

そんな感覚を覚えたものです。インターネットやスマホなどの

電子機器に頼らざるを得ない、薄闇の中を手探りで歩くような

暮らしが今も続いていて、先が見えないことに不安を覚えます。

 

 文明の利器の素晴らしさは言うまでもありませんが、それらにも

限界があり、人と人を引き離そうとする強い力には到底及びません。

戦争、凶悪犯罪、豪雨や洪水、山火事など自然災害のニュースも

後を絶たない現実があります。

 もう、これ以上は無理。そんな時が来れば、誰もが藁にもすがりたい

気持ちになります。実際、私も3.11の東日本大震災に遭い、為す術を

なくして途方に暮れ、心が折れそうになった経験があります。

 同時に、心の芯棒が折れる寸前という窮地の只中で、か細くて何の

役にも立たない藁などではなくて、本当にすがり、頼ることのできる

全能の神さまの存在を信じる者の強さも、あらためて知ることが

ができました。

 

  父がわたしを愛されたように、

  わたしもあなたがたを愛しました。

  わたしの愛にとどまりなさい。

           ヨハネ15章9節 

 

 人生途上には、思いがけない逆境や試練が待ち受けているものです。

“寄らば大樹の陰”と消極的な安全策を講じる前に、100%の安全を

保証してくれるぶどうの木、イエスさまの愛につながって、豊かな

実を結ぶ枝として生きていきたいものです。

夏に絵を描く習慣がよみがえる

 

 5年ほど前まで毎年、夏に開催されていた「かわさき平和

美術展」。絵画サークルの先生が主催者というご縁で、居並ぶ

プロ、セミプロの画家さんに混じって、厚かましくも素人作品を

出品させて頂いていました。

 

 夏が近づくと、今年は何を描こうかと題材を決めるのが悩みの

種でした。正直に言えば、この美術展があるから、とりあえず

キャンバスに向かうという怠け者。まさに夏休みの宿題に追われる

小学生のようなもので、美術展が終わるまでは、落ち着かない夏を

過ごしていたように思います。

 

 長い間の習慣というものは、体のどこかに染み付いているようで、

梅雨が明ける頃になると「そうだ、絵を描かないと‥」という

衝動が湧き上がってくるから不思議です。

 

 そう言えば描きかけの絵があったはず。ふとその絵の存在を

思い出し、作品に仕上げてみようかという気持ちになりました。

 

 折々に、孫たちの遊ぶ姿を描き残しておきたいと思い立ち、

これまで5歳と2歳、9歳と6歳の頃の二人の絵を描きました。

 

 

 

そして、これが描きかけの絵。12歳と9歳の頃の絵ですが、思えば

もう2年も前のこと。背景をどうしようかと、ほったらかしにして

いた作品です。

 


 上の子はもう中2、下の子は小学5年生。上背もすっかり伸びて

2年前とはだいぶ様子が変わりましたが、まずは成長の記録として、

当時の面影をキャンバスによみがえらせたいと思っています。

 

 3枚ともアクリル絵の具で描いていますが、実はだいぶ絵を描く

のをサボっていたせいで、固まってしまった絵の具も多く、さて

どうしたものかと‥。幸い、油絵の具はオイルで溶かせば使えるので、

この下絵の上に油彩で塗り進めてみようかと思案中。油彩の上に

水溶きのアクリル絵の具は乗りませんが、その逆なら大丈夫かなと。

どんな仕上がりになるかは分かりませんが、夏の宿題に取り組む

つもりで頑張ってみます(*^^)v

 

 教会学校が大好きな二人。イベントがある時は喜んで参加します。

ただ、それぞれに忙しい事情もあり、毎週通うのは難しそう。

もっとたくさん神さまと出会い、より豊かな人生を歩んでいけるように、

祈りつつ絵を仕上げたいと思います。

 

 あなたの若い日に、あなたの創造主を覚えよ。

 わざわいの日が来ないうちに、

 また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に。

         旧約聖書・伝道者の書12章1節

健全なヘルス・マネジメントの勧め

           アオセイヨウヒルガオ

 お気に入りの卓上カレンダーをデスク周りの3箇所に置き、

毎日、必ず目を通すのがルーティンになっています。今日は

その中の一つ、小牧者出版発行「幸いな人カレンダー」の

6・7月に掲載されている記事を紹介したいと思います。

 

「ヘルス・マネジメント」の3つのポイント

 1.自分に合った、適切な運動をしよう

 2.適切な休息を取ろう

 3.からだに入れる食べ物に注意しよう

 

 1.は運動が苦手な私には難題。せいぜい歩くことくらい

しかできません(~_~;)。在宅時でも歩数計4000歩を目処に

動くのが関の山。理想は一日7000~8000歩なのですが…。

 

 2.の箇所には次のような興味深い記事が書いてあります。

要約して書いてみます。

 アメリカのゴールドラッシュの時代、多くの人が西武開拓の

ため馬を走らせましたが、多くの人が不休で進み続けた結果、

馬が死んだり馬車が壊れたり、まさに骨折り損のくたびれもうけ。

いちばん先に金鉱脈に到着したのは6日働き、7日目に休んで

神さまを礼拝した清教徒たちだったという話。

 

 そもそも、7日を一週間とする習慣がどこから始まったかと

いうと、旧約聖書の最初の書物、創世記に由来するわけです。

神さまが6日間働いて天地万物を創造し、7日目に休まれたと

いう、そのサイクルを元に、今もずっと続いていることは驚く

べきことですね。神さまも7日目には休まれた。そこに大切な

意味があるのだと思います。

 もし仮に、日曜日という区切りがなかったらと考えると、

健康へのリスクが容易に想像できますよね。休まずに働くのは

美徳ではけっしてない。休息をいかに大切にするかで、仕事の

成果にも差が出るとなれば尚更のこと。働き盛りの息子たちも、

健全なヘルス・マネジメントを身につけてほしいものです。

 

 3.糖・塩分・脂肪を減らし、30品目にこだわらず、色々な

食材をバランスよく取り入れることをベースに、体に有害と

言われるものは避けるように心がけること。カレンダーの結文に

神さまから与えられた体に、良いものを与えて管理することは、

私たちの責任なのです。」と書いてある通りだと思いました。

 因みに、前に紹介した「竹炭パウダー」ですが、私の体には

合うようです。かなり緩やかではありますが、まだ飲み始めて

日も浅いのですが、効果を実感。レポートはまた後日に。

 

 「あなたがたは知らないのですか。あなたがたのからだは、

 あなたがたのうちにおられる、神から受けた聖霊の宮であり、

 あなたがたはもはや自分自身のものではありません。」

          (コリント人への手紙第一 6章19節)

 

『ドリアン・グレイの肖像』、そして “メメント・モリ ”

 

 

 日頃から読みたかった文庫本3冊を、ネット注文で購入しました。

その中の一冊、オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』

福田恆存訳/新潮文庫)を読み終えたところです。

 

朽ちることのない若さや美を求めてやまない、人間の欲望の

おぞましさに背筋がゾクゾクとしながらも、一気に読み通してしまい

ました。心に残る一冊になりそうです。では、ざっとあらすじでも‥。

 

 非の打ち所のない美青年ドリアン・グレイは、自分の美しい肖像画

前にこう考えました。自分の代わりに肖像画のほうが年をとり、自分は

若く美しいままでいられたら、どんなに素晴らしいかと。

 そして、あろうことか、その願いは叶えられたのです。

 

 月日は過ぎ、肖像画のドリアンの顔には皺が刻まれるように

なります。彼が罪を犯す度に皺が増え、崩れ、歪んでいくのでした。

老醜をさらす顔を目の当たりにし、もし善行を積めば、肖像画

美しい顔を取り戻せるのではないかと、うわべの行いを整えます。

しかし肖像画が、元の顔に戻ることはありませんでした。

 

自分の心を映し出すかのような醜悪な肖像画を前に、ドリアンの

心は混乱し、遂には絵にナイフを突き刺します。ドリアンは床に

倒れ息絶えますが、そこには皺だらけの老人の遺体があるだけ

でした。ドリアンがナイフで刺したのは自分自身だったのです。

ドリアンの死と引き換えに、肖像画のドリアンは絵が描かれた頃の

輝くばかりの美しい青年に戻っていました。

 

聖書に書いてある通りだと思いました。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る。 (第一サムエル記 16章7節)

   

   「‥おまえたちは白く塗った墓のようなものだ。外側は美しく

         見えても、内側は死人の骨や あらゆる汚れでいっぱいだ。」

                                              (マタイの福音書23章27節) 

 

 人は必ず老います。そして死を迎えます。不老不死を追い求める

人間の愚かな欲望が、どれほど多くの悲劇を生んだことでしょう。

この本の中に「死よ、思い上がるな」というフレーズがあるの

ですが、これは中世ヨーロッパにおけるメメント・モリ の思想を

意識したものなのかもしれません。

 “メメント・モリ とは「死を想え」「自分がいつか必ず死ぬことを

忘れるな」という17世紀頃のヨーロッパの中心思想です。実は私、

その時代のことを卒論のテーマに書いているので、忘れようもなく

脳に刷り込まれている、思い入れの深い言葉なんです(~_~;)

 

 どんなに善行を装っても、神さまは偽善を見抜いておられます。

正さなければならない自分の心の向きを、神さまに内側から変えて

いただくためには、真っ直ぐな心で祈るよりほかはありません。

 

 ところで、冒頭の写真はなぜに? と不思議に思う方もいると

思います。この写真を選んだのは、ドリアン・グレイのような美青年

とはどんな人だろうと考えた時、私の頭に浮かんだのが、この方!

はい。その昔、星の数ほどいた“隠れジュリー”の一人が、何を隠そう

この私でしたということで‥(^o^;

ノブリス・オブリージュ、位高ければ徳高きを要す


  今年7月、郷里仙台で兄の七回忌法要が執り行われます。

兄と最後に会ったのは亡くなる前年の秋。仙台の施設に入所中の

兄を訪ね、1時間ほど談笑した時のことでした。

 兄は若い頃、製薬会社に勤務しており、都内の病院の医療従事者

とも少なからず接点があったようです。その時代の面白エピソードが、

兄との最後の会話だったことが、懐かしくよみがえります。

 

 ここにお名前を上げることはしませんが、テレビのCMなどでも

大変有名なお医者さま。まだ研修医だったその方と兄は気が合い、

少し年長の兄が相談役になることもあったそうです。若かりし兄の

仕事の一端を知る、良い機会でもありました。

 

 その方は医師としての技術、名声、経済力を兼ね備え、知る人ぞ

知る高名なお医者さまになりました。本職は元より被災地への

義援活動や、無償の社会貢献活動を、今も幅広く手がけておられます。

その生き方や活動には、賛否いろいろの意見も散見しますが、こういう

活動は、正直、誰もができることではないでしょう。

 

 最近、ノブリス・オブリージュという言葉を覚えましたが、これは

19世紀にフランスで生まれた合成語で、noblesse(貴族)とobliger

(義務を負わせる)をかけ合わせた言葉のようです。その意味は、

「裕福な人、権力のある人、身分の高い人ほど、社会に手本を示す

べきである」「高い地位にある人は、それにふさわしい高貴な精神を

備え持つ責任と義務が伴う」というもの。

 なるほど。「位高ければ、徳高きを要す」というわけですね。

 

 ノブリス・オブリージュから、次のような聖書の言葉が浮かびます。

 

   多く与えられた者は、みな、多くを求められ、

   多くを任された者は、さらに多くを要求されます。

              ルカの福音書 12章48節

 

 さらに、行き着くところは聖書のGolden Rule(黄金律)と言われる

言葉にも結びつくのではないでしょうか。

 

   からしてもらいたいことは何でも、

   あなたがたも同じように人にしなさい。

              マタイの福音書7章12節

 

 富も名誉も力も、無い無い尽くしの貧しい私ではありますが、

たとえ僅かな持ち物であっても、それを社会にお返しする心意気だけは

持っていたい。そんな思いが湧いてきます。

人それぞれに 福音の種は蒔かれている

 

 先日、同郷の友人からランチのお誘いがありました。

友人といっても学生時代の2年先輩で、古くから家同士の

付き合いがあり、ずっとお世話になりっぱなしの女性です。

しかも、彼女のご両親は私たち夫婦のご媒酌人という御縁。

今までも、これからもずっと良いお付き合いは続いていく

ことでしょう。

 

 さて、待ち合わせ場所は、お互いの家からの中間地点にある

星乃珈琲。リーズナブルなお値段の割には、かなり美味しい、

お勧めのお店で気に入っています。ただ紅茶党の私、カフェで

ミルクティのオーダーは、少し申し訳なくもありますが(~_~;)

 

 その日、誘われたのには理由がありました。彼女は昨年の

秋から近くの教会へ通うようになり、今年に入ってから、洗礼に

向けての勉強会が始まっていました。

 牧師さんの導きによって全11回の学びが終了し、神さまを信じる

信仰の道へ進むことができたこと、今年のイースター(4月9日)に

洗礼を受けることになったという、嬉しい報告のためのお誘いだった

ようです。

 

 それぞれの人生の歩みの中には、人しれぬ悩みや苦労がある

ことでしょう。でも、はたから見る彼女の人生は順風そのもの。

求めるものは、もうないのでは? そんな思いも湧くほど、

とても恵まれた人生を歩んでいるように見えます。クリスチャンに

なった方々の証しを聞くと、やはりどこかで転機があり、真理が

知りたくなって求道へと進む人のほうが多いようです。

 

 彼女もしきりに言っていました。

「私の場合はドラマチックな話が何もないのよ」と。

 彼女のお父さんは賛美歌や宗教音楽が好きで、よく教会へ

通っていたそうです。お父さんはクリスチャンではありません

でしたが、聖歌隊のメンバーに数えられて、クリスマス集会

などで歌うこともあったのだとか。子供だった当時、」教会で

聴いた賛美歌が好きになり、自分も歌いたいと、ずっと思い

続けていたのだと。

 

 たまたま、近くに教会があることを知り、調べてみると、

教会の牧師さんが母校(ミッションスクール)の学院長を務めて

いた方だと分かり、その偶然に驚くと共に、これは神さまの促し

かも‥、教会の戸を叩いてみようと気持ちが動いたのだそうです。

 

 神さまとの出会いにドラマチックな出来事があってもなくても、

転機になるような艱難辛苦がなくても、平和の只中にあっても、

人は時にかなって信仰へと導かれることに、深い感動を覚えます。

神さまは一人ひとり、その人生のどこかに福音の種を蒔かれて、

いつか芽を出し、実るのを待っておられるのだなぁ‥と。

 

   神のなさることは、すべて時にかなって美しい。

            (伝道者の書 3章11節)