シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

デンマーク・カクタスの開花に思いをよせて

 


 

 ようやくデンマーク・カクタスの花が開花しました。

花の命は短くて…とは言いますが、蕾が少しずつ膨らんで、

花びらが開くまでの時間は、思いの外、長く感じられます。

大きな鉢に植え替え、肥料を与え、土が乾かないように

水を注ぐ。たったこれだけの手間でしたが、こんなに綺麗な

花を咲かせてくれたことに、不思議な感慨を覚えます。

 

 新約聖書コリント人への手紙3章6節に、こう書かれています。

 

  私が植えて、アポロが水を注ぎました。

  しかし、成長させたのは神です。

 

 ここで「私」というのはパウロという伝道者で、アジア、ヨーロッパに

多くの教会を建てた人物です。上述のコリントとは当時(紀元50年頃)、

交通の要衝として栄えていた大きな国際都市でした。様々な人種や

職業の人が集まるコリントの教会には、党派、分派も出始めました。

「私はパウロ派」「アポロ派」「ペテロ派」…という風に。

教会の内部分裂を憂うパウロが、コリント教会へ送った手紙の一節。

それが聖書の中に記されているのです。

 

 種を植える人、水を注ぐ人、手入れをする人…は皆、それぞれ

大切な役割であり、一つでもおろそかにすることはできませんが、

地中で種に命を与え、見守り、成長を促すのは神さまです。

人智を超えた神さまの領域には、誰一人、入ることはできません。



 鉢花が一輪、ほころんだ‥。

ほんの些細なことの中にも、神さまの息吹が感じられるのは

信徒としての大きな喜びです。

 

 

 

 

斧が鈍くならないうちに 刃を研いでおこう


2022年もあと残り3日になりました。

もう少し若い頃は年末の大掃除やら、買い出しやらで大忙しの

時期でしたが、近年は何とものんびりしたもの。少々気合が

入るのは年賀状書きくらいでしょうか。それも、ここ数年、

多くの方が年始挨拶の終了を告げられ、枚数も大幅に減り

ました。寂しさもある反面、スマホやネットでのご挨拶も

フレンドリーで良いのかもしれませんね。

 

のんびり‥とは言っても、大晦日には必要最小限のおせちを

作りますので、包丁だけは研いでおく必要があります。先日は、

魚さばきが得意な孫に「おばあちゃんの包丁は切れないね」と

言われたばかり。いつも、マイ包丁を大事に手入れしている

孫ですから、仕方がないことではありますが(~_~;)

 



旧約聖書の中に、こういう言葉があります。

 

  斧が鈍くなったときは、

  刃を研がないならば、

  もっと力がいる。

  しかし、知恵は人を成功させるのに益になる。

         伝道者の書 10章10節(新改訳2017)

 

たしかに切れ味が鈍くなり、なまった包丁では、思い通りの

調理はできません。神経も使うし、余分な力も入ります。やはり

包丁は本来、シャープな切れ味であるのが鉄則なのでしょう。

調理する前には、包丁の刃がこぼれてはいないか、錆ついては

いないか、点検してから始めることの大切さを教えられます。

 

それは、私たちの心の持ちようにも言えることだと思います。

メンテナンスが必要なことは分かっていても、時の流れのままに

研がれても磨かれてもいない、曇った状態のままで心を使い続けて

はいないでしょうか。ほんの少し立ち止まって心を点検し、軌道修正すれば、

物事がスムーズに進み、余分な労力も省けるかもしれません。

 

一日の、どの時間帯でも良いので、静まって神さまに祈り、

自分の心を探るQuiet Timeを持ちたいものです。

 

2022年も、拙いブログにお付き合いいただき、ありがとう

ございました。これからも聖書から教えられたこと、日々の

出来事、サッカーの話題や趣味のことなど、ゆっくりペース

ではありますが綴っていくつもりでおりますので、引き続き

2023年も「シャロンの薔薇」を、よろしくお願い申し上げます。

 

皆さまも、どうぞ良い年末年始をお過ごしくださいませ。

 

思い煩いからの解放

 

恒例になっているクリスマスカードの作成も、無事終了。

やれやれと、ホッとしているところです。

 

とは言うものの、すぐに手を動かしたくなる私。今度は

栞作りを始めています。クリスマスカードの台紙から出る

大量の半端紙。レザックという、なかなかの高級紙なので、

捨てるにはもったいない。そこで栞にしてはどうかと考え、

いくつかサンプルを作ってみました。

 

聖書を読む人なら分かると思いますが、栞は割と必要です。

この紙は適度な厚みがありますが、しなるため、聖書の薄い紙を

傷つけることもなく、栞に最適かもしれませんね。

 

ただカード作りに全力を注いだので、あまり余力が残って

おらず、細工はほどほどにし、上のスペースに聖書の言葉を

プリントしたものを貼ってみました。

その一枚をピックカップ



  あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。

  神があなたがたのことを心配してくださるからです。

              (ペテロの手紙 第一 5章7節)

 

26年前、洗礼を受ける年の元旦礼拝で、回ってきた籠の中から

引き当てたカードに、この聖句が書かれていました。

 

身内に一人もクリスチャンがいないのに、自分一人が信仰の

世界に入って大丈夫だろうか。まさに、そんな思い煩いが心から

離れず、悶々としていた頃のこと。それが、この言葉によって

心が一新されたのです。

 

くよくよ考えても、悩んでいても堂々巡りするばかり。

自分の力で解決しようとするから苦しいのです。だけど、私の

思い煩いをご存知の全能の神さまが心配していてくださる。

これはもう、ただ、ゆだねるよりほかにないでしょうと‥。

 

ストンと心の霧が晴れた瞬間のことを、今も覚えています。

今、作っている栞も、どなたかの手に渡るかもしれません。

そこに書かれた聖書の言葉が、その人にとっての生きる指標に

なれば、とても嬉しく思います。

霧の摩周湖から届いた贈り物

 

世代は違うけれど、親しくしている若い友人から、

封書で、北海道旅行の可愛いお土産が届きました。

 

小さな木彫りのストラップ。入っていた小袋には

道の駅摩周湖温泉のお店の名が書かれていました。

 

摩周湖と言えば、やはり“霧の摩周湖”となりますよね。

15年前、私も行ったことがある場所です。

定年で現役を引退する夫を労う、記念旅行の時でした。

ツアー旅行でしたから、当然、北海道屈指の観光スポット、

摩周湖は外せません。日本一の透明度を誇る湖を、この目で

見たいと思いつつも、一面、霧に包まれ全貌をつかむのは

難しいと言われる摩周湖です。

 

その日もお約束(?)通り、霧がかかっていました。

「この先が湖です」と言われても、本当に何も見えません。

ガイドさんの「念力で霧を晴らしましょう」の掛け声に、

待つこと数十秒。

 

あら‥。念力が効いたのでしょうか。

ほんの一瞬ですが、風が霧を吹き払い、おもむろに姿を現した

湖を目に焼き付けることができました。ただ、シャッターチャンスを

逃してしまった悔しさ、今、思い出しました。でも空は青空(*^^)

 

摩周湖阿寒国立公園の中にありますが、公園で見つけたリスも、

懐かしい思い出の一コマです。

 

聖書には「霧」を含む聖句は多くありませんが、口語訳聖書に

次のようなものがあります。

 

 ‥彼らは朝ののように、すみやかに消えうせる露のように、

  打ち場から風に吹き去られるもみがらのように、

  また窓から出ていく煙のようになる。

                 ホセア書13章3節

 

  わたしは、あなたのとがを雲のように吹き払い、

  あなたの罪をのように消した。

                イザヤ書44章22節

 

霧というものは、すぐに消え去るもの。そして、その後、速やかに

晴れるものをイメージさせますね。霧そのものも潤っていますが、

次の晴れる瞬間を期待して待つ、私たちの心にも潤いをもたらす

気象現象と言ってよいでしょう。

 

晩秋の北の大地。素敵だろうなぁ‥と、木彫りのストラップを

眺めながら、想像を逞しくしています。

心配事の9割は、実際には起こらない

          ※ 紫陽花の返り花

「心配事の9割は実際には起こらない」というインパクトの

ある言葉を、何かの本で目にしたことがあります。

 

人間の心はなかなか複雑に出来ていて、心配や不安の種が

芽生えると、それがいつの間にか増殖し、気がつくと

八方塞がりになっていることがよくあります。

 

上の言葉は、楽天主義的に、文字通りに解釈するものではなく、

心が疲弊し、擦り切れるほどに心配したり、悩み苦しむことの

ないようにという、戒めの意味を含む言葉のようにも思えます。

 

確かに、雪だるまのように膨れ上がった心配事は、心の90%を

占めてしまうほど悩ましいものだと思います。ですが、心配事の

正体を突き詰めていくと、それは妄想であったり、取り越し苦労に

過ぎなかったり‥ということはよく聞く話ですよね。

 

思い煩いによって心が占領される時、まずは冷静に、心配事の

根っこにある塊(かたまり)を探すことが、先決かもしれません。

心の根っこに陣取った悩みの正体が見えてきたら、周りを囲んでいる

余計なモヤモヤ部分を、一つずつ、引き算していけば良いのです。

 

さあ、それから先は神さまの領域です。まだ残る不安や恐れを、

いったん神さまに預けることから始めるのが良いでしょう。

信じる者の明日を守り、責任を持ってリードしてくださる神さまに

全権をお委ねして祈ること。平安な心こそが、最強の心配事処理法。

そんな心の持ち方が出来たらハレルヤ(心も晴れるや)ですね(*^^)v

 

 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。

 明日のことは明日が心配します。

 苦労はその日その日に十分あります。

                マタイの福音書6章34節

「敬老の日」~思いを新たに~

 

          ホトトギス

 

9月19日夜、中学生と小学生の孫から電話が来ました。

「今日は敬老の日だから、電話したんだよ」と。

 

もう、「敬老」の対象であることは重々承知していますが、

忌憚のない孫たちの言葉によって正真正銘、れっきとした

老人であることを自認するに至った次第です(~_~;)

 

9月初旬、教会で発行している教会便りに、「老い」を扱った

記事が掲載されました。少し長いですが聖書の当該箇所のみを

紹介したいと思います。

 

「その日、家を守る者たちは震え、《 腕が弱る 》

 力のある男たちは身をかがめ、    《 足腰が弱る 》

 粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、

              《 歯が減り、噛む力が弱くなる 》

 窓からながめている女たちの目は暗くなる。 

              《 視野が狭くなり、視力が落ちる 》

 通りの扉は閉ざされ、           《 両耳、聴力の低下 》

 臼(うす)をひく音もかすかになり、     《 声が出なくなる 》

 人は鳥の声に起き上がり、         《 浅い眠りと早起き 》

 歌を歌う娘たちはみな、うなだれる  《 ことばの混乱 》

 人々はまた高いところを恐れ、     《 高所恐怖 》

 道でおびえる。                    《 不安 認知症 徘徊 》

 アーモンドの花は咲き、            《 白髪になる 》

 バッタは足取り重く歩き、          《 歩行困難 》

 風鳥木(ふうちょうぼく)は花を開く。《 生殖能力の衰え 》

 人はその永遠の家に向かって行き    《永遠の家=墓?》

 嘆く者たちが通りを歩き回る。      《 葬儀の準備 》

 こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、                 

                 《 血液循環器系統の故障 》

 水がめは泉のかたわらで砕かれて、

 滑車が井戸のそばでこわされる       

                  《 内臓の機能不全 》

 土のちりは元あったように地に帰り、

 霊はこれを与えた神に帰る。」       

               (伝道者の書12章3-7節)

 

聖書は肉体の衰えを、ただネガティブに捉えるのではなく、

比喩を用いて淡々と、ありのままの現実を描写しているのが

分かります。そして老いの事実を受け入れながらも、内面を強く

保ち、ポジティブに生きるにはどうすれば良いか、示唆を与えて

くれます。

 

「人はその永遠の家に向かって行き」とありますが、イエスさまは

わたしを信じる者には、「あなたがたの住まいを用意しておく」と

約束されています。老いと死の先にある、この世の墓ではない

「永遠の家」に目を向けること。ここに確かな望みがあります。

 

これから後、肉体の弱さを覚える日々は増えていくでしょう。

でも、老いの重荷に打ちひしがれることなく、尚も永遠の住まいに

希望を抱いて向かって行く、ゆとりあるアクティブ・エイジングを

目指したいものです。

 

 

素晴らしいセーフティネットのある社会 ~ミレーの『晩鐘』から~

 古い読売新聞のコラム「編集手帳」を読み返していたら、福分という

耳慣れない言葉が目に留まりました。福分とは本来、幸運という意味の

ようですが、少し違った解釈もあるようです。

 ミレーの『晩鐘』の絵を例に、“福分”の説明が書いてありました。

  

   ※画像はネットのフリー素材からお借りしました。

 …授かった運に感謝して精いっぱい生きるのだが、身の程を心得て

背伸びはしない。それが福分のようである。

 …収穫したジャガイモと農具の傍らで手を合わせる妻。帽子を手に

こうべを垂れる夫。ささやかではあれ、授かった福分を、今日一日

まっとうできたことへの感謝だろう。

 

 ミレーの『落穂拾い』や『晩鐘』は、旧約聖書のルツ記を背景にして

描かれたと言われています。

 異国で夫と二人の息子と死別した姑ナオミと、夫を亡くした嫁のルツ。

二人はナオミの故郷に戻り新たな生活を始めます。生計を立てるため、

ルツは姑の遠縁に当たるボアズの畑で、落穂拾いを始めます。

 

 落穂拾いという制度があったことは、現代人には今ひとつピンと

来ないところですが、実は、何千年も昔に、このように貧しい層への

救済策、セーフティネットが確立していたことに驚きます。

 旧約聖書には、このように書いてあります。

 

 あなたがたが自分の土地の収穫を刈り入れるときは、

 畑の隅々まで刈り尽くしてはならない。

 収穫した後の落ち穂を拾い集めてはならない。

 また、あなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。

 あなたのぶどう畑に落ちた実を拾い集めてはならない。

 それらを貧しい人と寄留者のために残しておかなければならない。

 わたしはあなたがたの神、主である。   

               レビ記19章9-10節

 

 ルツの物語をさらに読み進めると…。

農園主のボアズは、異国人であるルツが献身的に姑のナオミに

仕える姿に心を打たれ、後に彼女を妻に迎えます。ボアズは

キリストの系譜に連なる人物です。その系図に女性の、しかも

異国人ルツの名前が書き加えられることも、確かに神さまの

ご計画のうちにあったのでしょう。

 

 夕暮れ時、一日の仕事の終わりを告げる晩鐘は、どんな音色で

広大な農園に響き渡ったのでしょうか。『晩鐘』の絵を見る度に、

想像力が掻き立てられます。 働きバチの日本人には、終業の鐘など

ナンセンスなのかもしれませんが、もし鐘の音を合図に仕事の手を

休め今日の働きを終えたことに感謝して一日をしめくくる。

そんな習慣があったなら、どうでしょうか? ホッと疲れを癒す

心の安らぎや、明日への活力が湧いてくるような気がするのです。

 

※写真のピーマンは農園ならぬベランダ菜園で収穫したもの。

 明日あたりはジャガイモも採れそうです(*^^*)