シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

「瞳」の中の天使を大切に

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2年ほど前から視力の衰えを実感。眼科検診を受けようと

思っていた矢先のコロナによる緊急事態。もう少し、

あと少しと一日延ばしにしているうちに、いよいよ目が

おぼつかなくなってきました。おそらく白内障だろうと

自己診断し、友人知人の助言を得て、今夏の手術を想定し、

いざ、眼科を受診。

 

一通りの問診、診察、検眼、検査を終えた後、予想に反した

診断結果に、「え? そうなんですか?」と、戸惑いを隠せず

聞き返してしまいました。結論から言うと、「たしかに両目

とも白内障は始まっているけれども、今、手術するのは勿体

ない。それより現在使用しているメガネの度が合っていません。

しっかり度数の合ったメガネを常用し、もう少し様子を見る

ことをお勧めします」とのこと。

 

白いものを見ると眩しいし、夜には文字が滲んだり霞んだり、

二重に見えたりするし、かなり読書や手仕事に影響が及んで

いたので、内心、「なんで?」と、拍子抜けしてしまう先生の

言葉でした。視野が広く明るくなって、クリアに見えるように

なることを期待し、当然、手術をする気満々でいましたから‥。

 

まあ、時期尚早ということでは仕方ありません。この際ですから、

遠近両用+乱視用の正しい度数のメガネを新調することにします。

ただ、本当はメガネは大の苦手なんです。よほど遠くのものや、

近くを見る時にかけるだけでしたから、常用となるとストレス

たまるでしょうね。第一、メガネがおよそ似合わない👓 

観念して、メガネ美人、マスク美人を目指すよりないですね。

一見、誰か分からない怪しい人になりそうですが(^o^;) 

 

 わたしの命令を守って生きよ。

 わたしの教えを、自分の瞳のように守れ。

         旧約聖書 箴言7章2節

 

以前も書きましたが、ヘブル語の「瞳」という語には「小さい人」

という意味があるのだとか。鏡に映った自分の目の中には、確かに

「小さい自分」の姿が確認できます。

「瞳」=「小さい人」=「大切に守るべきもの」。 

きっと、そういう意味が込められているのでしょう。

 

昔、「君の瞳は10000ボルト 地上に降りた最後の天使‥」

というヒット曲がありましたが、目の中の小さな人って、ひょっとして

天使? もし天使なら、なおさらのこと。大事に、大事に扱わないとね。

 

白いものが眩しくて‥とつぶやきましたが、今朝、咲いた綿の花も

真っ白。照り返しのきついベランダを潤す一角のオアシス。この純白さ

だけは眩しいなどという不平不満も吹き飛び、ただただ心が洗われます。

 

 

 

 

良い器は、よく練られた粘土から

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昨年以来、習い事への取り組みもずいぶん減りました。

二回のワクチン接種も済み、遠慮がちにではありますが、

サークル活動にも復帰し始めています。

陶芸の先生から「作品が焼き上がりました」という連絡を

いただいたので、ワクワクしながら受け取りに行くと、

素朴だけれど味わいのある3個の湯呑が完成していました。

 

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だいぶ前に作ったものなので、我が作品ながら「初めまして!」

みたいなご対面。湯呑の口に細工を施したことも、すっかり忘れて

いて、その意図すら思い出せません。でもきっと家族3人、各々の

所有が分かるようにと知恵を絞ったのでしょうね(^o^;)

 

一度でも陶芸の経験がある人なら分かると思いますが、基本は

土練りです。菊練りと言うのですが、ちょうど菊の花のような

形になるまで丹念に練り上げます。それは器がひび割れないよう

土中の空気を抜くためで、絶対に手を抜けない準備の作業です。

全体重をかけ、長い時間、集中して、きめ細やかな粘土に練り

上げる大変な重労働なのです。

 

いかにも自分もやっているかのような書きぶりですが、実は

年配者の利に免じ、私は先生が練ってくださった土を手で

ひねるだけ。誠にかたじけなしの有りていですm(__)m

 

愛唱賛美歌の一つに、器と陶器師についての歌詞があります。

粘土・器は私。陶器師は神さま。厳粛でもあり、心地よくもある

この関係に、身が引き締まる思いがします。

 

教会福音賛美歌327番「ゆだねます主の手に」

1.ゆだねます 主の手に

  器なるわが身を

  陶器師の手により

  練りあげてください

 

 陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、

 それは再び、陶器師自身の気に入る ほかの器に

 作り替えられた。

        (旧約聖書 エレミヤ書 18章4節 )

 

自分は神の傑作と言い切れる人は稀でしょう。少なからず

何らかのシミがあるのは、誰もが知っているはずですから。

ヒビも凸凹も穴も意に介さず、不格好な器を、自分の気に

入るまで何度でも土をこね直して、作り変えてくださる陶器師で

ある神さま。よく練られた粘土はロクロの上で回され、整えられ、

窯に入れられます。“火”という最後の試練もまた、良い器に

欠かせないプロセスなのだということが分かります。

 

コロナフレイルとは? 予防対策は?

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最近、ネットや新聞紙上で「フレイル」という言葉をよく目にします。

frail(英語)は日本語にすると「虚弱」という意味。誰でも年を取ると

体力が低下し、いつかは人の手を借りなければならない時がやって来ます。

フレイルとは、年を重ねるにつれ、知力、体力が徐々に弱まっていく時期。

さらに言えば、介護が必要かどうかの「中間的段階」を指す専門用語の

ようです。そう遠くはないところにいることを思えば、なんとも身につ

まされる言葉ではあります。

 

「フレイル」に冠がついたのが「コロナフレイル」。

感染予防のため、ステイホームを求められて約1年半。外出する機会が

激減しています。ストレスフルなのは、どの世代も同じですが、特に

高齢者の現実は深刻です。アクティブシニアと言われる、活動的な老人は

別にしても、趣味のサークル活動や旅行、会食などをじっと我慢して、

巣ごもりの日々を送る人の何と多いことでしょう。決まりを守って粛々と

暮らす高齢者に、そっと忍び込む「コロナフレイル」の危うい影‥。

 

例えば食欲がなく体重が減少したり、間食が多くて増加したり、倦怠感が

抜けなかったり。また生活様式の変化によって、やる気が起きなかったり、

外出を控えることで足腰が弱り、歩く速度が低下したり‥。ネット記事で

読みましたが、もし高齢者が2週間寝たきりになった場合、通常の7年間に

失われるのと同程度の筋肉量が落ちるのだとか。 そうなんだ!少し無理を

してでも歩かないと! 思い当たるふしがある分、切実にそう思います。

 

また、どうしても生活リズムが緩んでしまい、緊張感がなくなります。

抑うつ状態を招いたり、認知症の引き金にもなりかねません。先の

見通しが立たないから不安になったり不眠に陥る人も。最近、私も不眠で

苦しい思いをし、原因不明だと思っていましたが、もしかしたら遠因に

「コロナフレイル」があったのかなと、妙に頷いたりしています。

 

また、社会とのつながりが希薄になるため、孤独や寂しさを感じて

いる人は、けっこう多いでしょう。これはとても深刻な問題です。

そんな時、電話やスマホというツールは優れものだし、親しい人との

コミュニケーションに役立ちます。ただ、それらにも限度があります

から、できれば一歩、いや十歩以上進んで、オンラインの活用も必要

な時代になったのだという、割り切りも大事かと思います。

 

高齢だから、機械音痴だから、面倒だから‥は、全部、言い訳です。

かかりつけ医が笑って言ってました。“新しいことを覚えようとしないのは、

ある意味、認知症の始まりだよ”と。 うーん、そうなのね‥(-_-;)

今の時代を生きるからには、かなり高いハードルでも、必要とあらば

採り入れる勇気、決断をすべきなのでしょう。

 

「コロナフレイル」の予防対策として、定時の起床と就寝。三度の食事。

適度な運動。水分補給。三密回避。マスク着用。手洗い、うがいの励行。

そして積極的なオンライン活用。作文や手仕事も脳トレに良いそうなので、

今日も一つ、作ってみました。A4用紙1枚でできるマメ手帖。マッチ箱

二つ分位のサイズ、表紙は折り紙、背表紙はマスキングテープ使用です。

ブログも、もう少し更新頻度をアップしたいと思います。

ひたすら、美しいことばを聞きたくなる時

いまだコロナの感染状況が鎮静化しない中、オリンピックの

準備は着々と進んでいます。大半の人がモヤモヤと、やり場の

ない気持ちで、この時期を過ごしているのではないでしょうか。

 

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くもの ある日

くもは かなしい

くもの ない日

そらは さびしい

 

   死のうかと おもう

   そのかんがえが

   ひょいと のくと

   じつに

   もったいない こころが

   そこのところに すわってた

 

ぽくぽく

ぽくぽく

まりを ついていると

にがい にがい いままでのことが

ぽくぽく

ぽくぽく

むすびめが ほぐされて

花がさいたようにみえてくる

 

   空のように きれいに なれるものなら

   花のように しずかに なれるものなら

   価(あたい)なきものとして

   これも 捨てよう あれも 捨てよう

 

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 くさがかれたんだから

 わたしのおもいだって

 すなおにかれたらいい

 

    信ずること

    キリストの名を呼ぶこと

    人をゆるし 出来るかぎり愛すること

    それを私の一番よい仕事としたい

    

    ゆきなれた路の

    なつかしくて耐えられるように

    わたしの祈りのみちをつくりたい

 

神様 あなたに会いたくなった

。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

 

『神様 あなたに会いたくなった』

いのちのことば社 フォレストブック)から抜粋した、

何編かの八木重吉の詩です。

  

どうにもならないモヤモヤを一掃してくれるような、ただただ

純粋で、素朴で、清らかな美しいことばが聞きたいと思う時が

あります。そんな時、なぜか心に染みてくる八木重吉の詩。

特に、神様 あなたに会いたくなった というフレーズは、

心にこだまする一行詩ではないかと思います(*^^*)

 

描きたいモチーフと向き合う楽しさ

昨年、今年と緊急事態宣言が続いたので、サークル活動が制限

されていました。絵も陶芸も自分史も、ようやく再始動といった

感じです。

 

たくさんある画材を使わないのは勿体ないので、絵はいつも

描きたいと思っているのですが、なかなか腰が上がりません。

かれこれ30年余り絵を描いてきましたが、絵の才能はまったく

ないことを自分がよく知っているので、あまり背伸びをせず、

本当に描いてみたいと思うものに出会ったときに、絵筆を

取ってみようかなくらいのスタンスでいます。

 

いろいろチャレンジはしましたが、まずは草花以外の静物

風景画などは苦手です。何年も習いましたが人物デッサンも

怪しいもの。それでも完全無欠な人体には魅せられます。

これまで、魅力的なモデルさんにも、たくさん出会いました。

モデルさんと描き手にも相性があり、好きなモデルさんを

描いた絵は、なかなか良く描けて気に入っています。

 

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さて、この方はモデルさんではないのですが、その指の

美しさ、しなやかさに大いに食指が動き、ただいま二作目を

制作中。このブログにも、時々登場するマーク・アキクサさん。

インディアン・フルートの第一人者です。マークさんは、

ネイティブアメリカンの伝統的な木管楽器を、ご自分でも

作られ演奏されるアーティスト。フルートの澄んだ音色は、

人間や自然界を造られた神さまに、笛という“管”(パイプ)を

通り道として、静かに祈りを捧げるているかのようです。

 

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まだまだ素描の段階。これから少しずつ描き進めて

いきたいと思います。特に指には力を込めて‥。

 

ちなみに私は、絵の先生に下描きのほうが良いと言われます。

だいぶ前のものですが、この納屋を描いた絵もそう。

たしかに、素描のほうが迫力があるような気がします。

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せっかく重い腰を上げてキャンバスを立てたのですから、

少しでも素描を超えるマークさんを目指し、より丁寧に

仕上げたいと思っています。

 

 

 

 

「引き算の人生」も悪くない

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ずいぶん昔、いのちのことば社の機関誌「いのちのことば」に

掲載されていた詩を紹介します。

 

   「引き算の人生」

     木村藍著『傷つきやすいあなたへ』(文芸社)より

      

  人生は足し算だと思っていました。

  学校へ行って新しいことを勉強し、

  できなかったことができるようになる。

  友達を作る。

  知識や技術を身につける。

  働いてお金をもうける。

  服を買う、車を買う、家を建てる。

  足りないものは足していく。

 

  知識、学歴、資格、お金、持ち物、人間関係、

  なんでも多ければ多いほどいいと思っていました。

  人生は足し算でした。

 

  うつ病になって、なにもできない惨めさを知りました。

  仕事はおろか、起き上がることもできません。

  電話に出るのも、人に会うのも苦痛になりました。

 

  今までできたことが、できなくなりました。

  やりたくてもできないこと、

  どんなにしたくても、やってはいけないことも増えました。

 

  それから人生は引き算になりました。

  たくさんあることの中から、

  ほんとうにしなければならないことだけを残す引き算です。

 

  大切なことと、どうでもいいこと、

  どうしても私がしなければならないことと、

  ほかの人に代わってもらってもいいこと、

  時間をかけてしたほうがいいことと、

  手を抜いてもいいこと、

  少しずつ見分ける知恵がついてきました。

  わたしにしかできない、ひとにぎりのことを 心をこめてする。

  引き算の人生も、悪くないと思います。

 ..................................................................................

 

以前にもブログに書きましたが、「知足(ちたる)」という名前の

人を知っています。親御さんは、満足することを知っていれば、

豊かな人生を送れるとの願いを込めて命名されたのでしょうね。

“足るを知る”。とても素敵なことです。

 

自分に足りないものを増やしていけば、より人生も充実した

ものになるだろうと考えがちですが、それは一面の真理でしか

ないように思います。ちょっと的はずれな例かもしれませんが、

もし人間に忘却というものがなく、ことごとく記憶し続けたら、

脳はパンクしてしまうという話を聞いたことがあります。記憶と

忘却は、その人にちょうど良い「足し算と引き算」でバランスが

取れているのかもしれません。神さまの御手の中で‥。

 

これも前に書きましたが、上皇后 美智子様が語られた

「失ったことを嘆くよりも、お返しする生き方を」という、この

お言葉にも通じるように思うのです。人間のいのちも、能力も、

地上における神様からの いっときの授かりもの。来たるべき

時が来たら感謝してお返しする。「喪失の栄光」とも言える

でしょうか。旧約聖書 ヨブ記の1章21節が思い起こされます。

 

 「私は裸で母の胎から出て来た。また裸でかしこに帰ろう。

 主は与え、主は取られる。主の御名は ほむべきかな。」

 

高齢者の身にもなれば、いろいろと持ち物も多くなります。

若い頃のように、何としても手に入れたいと思う物欲は

さすがになくなりましたが、それでも何か足りないものを、

いつも探している気がします。人間の性(さが)なのでしょうか。

 

この詩には頷けるフレーズがたくさんあります。私も、今の

自分に本当に必要なものだけを残し、物心両面において

「さして要らないもの」を、思い切って引き算していく作業を

始めたいと思います。

 

※写真は今朝の紫陽花。雨によく映ります。

NHK朝ドラ『おかえりモネ』の一場面から

 

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 ※写真(上)気仙沼市・唐桑の海とウミウ 

    (下)ウミウのアップをアクリル画で描きました。


ここ何年もNHKの朝ドラを見る習慣がなかったのですが、

ヒロインの出身地が宮城県気仙沼市の離島、大島という

設定もあって、初回から楽しみに視聴しています。

気仙沼市は生まれ育った大切な古里です。

 

今朝(6月4日)の放送は、なんとも複雑な思いで画面を

見ていました。

【2011.3.11 午後2時46分】

10年前のこの日、この瞬間のことは消そうとしても脳裏から

消えない出来事です。だから、ブログにも繰り返し書いて

きました。実害はなかったけれども、結果的に一人の被災者と

して、風化させてはならない事象だと思っているからです。

 

今日の放送を見て心が騒いだのは、もちろん10年前の記憶が

まだ鮮明に残っていることにもよりますが、それとは別に

幼い頃に脳裏に焼きついた強烈な景色が画面と重なって

見えたからです。

 

1960年5月、南米チリの太平洋沖で起きた、M8.5という

記録的大地震による大津波が、地球の裏側の日本沿岸にまで

達成し、あっという間に気仙沼市も大波に呑み込まれてしまい

ました。幸い家が高台にあったので被害は免れましたが、両親や

祖母が近隣の人と対応に追われていたのをよく覚えています。

小学校低学年だった私は、(たぶん)学校の先生に誘導され、

柏崎(かしざき)という山の上に避難しました。

 

そこから見下ろした景色。今朝のTVでは一面の火の海でしたが、

その時、私が見たのは約6メートルの大津波でした。膨れ

上がった海水はまるで真っ黒い大蛇のようで、大路小路を問わず、

じわじわと容赦なく町に侵入してきました。

 

町中の家から流出した日用品や、自転車、ドラム缶、タイヤ

などが、ぐるぐる円を描きながら静かに流れていく非現実的な

光景。みんな声もなくスローモーションの映像を見るように

呆然と眺めていたのを覚えています。デジャブというのは実際に

見ていないのに、見たことがあるような感覚(既視感)のことを

言いますが、今日の朝ドラはデジャブではない、厳然とした記憶

に重なる場面でした。

 

戦争、東日本大震災、コロナ禍。

順境もあれば逆境もある。人生、不可抗力の出来事はいろいろ

ありますが、そこから何を学ぶべきか。真摯に問い直さなければ‥。