昨年以来、習い事への取り組みもずいぶん減りました。
二回のワクチン接種も済み、遠慮がちにではありますが、
サークル活動にも復帰し始めています。
陶芸の先生から「作品が焼き上がりました」という連絡を
いただいたので、ワクワクしながら受け取りに行くと、
素朴だけれど味わいのある3個の湯呑が完成していました。
だいぶ前に作ったものなので、我が作品ながら「初めまして!」
みたいなご対面。湯呑の口に細工を施したことも、すっかり忘れて
いて、その意図すら思い出せません。でもきっと家族3人、各々の
所有が分かるようにと知恵を絞ったのでしょうね(^o^;)
一度でも陶芸の経験がある人なら分かると思いますが、基本は
土練りです。菊練りと言うのですが、ちょうど菊の花のような
形になるまで丹念に練り上げます。それは器がひび割れないよう
土中の空気を抜くためで、絶対に手を抜けない準備の作業です。
全体重をかけ、長い時間、集中して、きめ細やかな粘土に練り
上げる大変な重労働なのです。
いかにも自分もやっているかのような書きぶりですが、実は
年配者の利に免じ、私は先生が練ってくださった土を手で
ひねるだけ。誠にかたじけなしの有りていですm(__)m
愛唱賛美歌の一つに、器と陶器師についての歌詞があります。
粘土・器は私。陶器師は神さま。厳粛でもあり、心地よくもある
この関係に、身が引き締まる思いがします。
教会福音賛美歌327番「ゆだねます主の手に」
1.ゆだねます 主の手に
器なるわが身を
陶器師の手により
練りあげてください
陶器師が粘土で制作中の器は、彼の手で壊されたが、
それは再び、陶器師自身の気に入る ほかの器に
作り替えられた。
自分は神の傑作と言い切れる人は稀でしょう。少なからず
何らかのシミがあるのは、誰もが知っているはずですから。
ヒビも凸凹も穴も意に介さず、不格好な器を、自分の気に
入るまで何度でも土をこね直して、作り変えてくださる陶器師で
ある神さま。よく練られた粘土はロクロの上で回され、整えられ、
窯に入れられます。“火”という最後の試練もまた、良い器に
欠かせないプロセスなのだということが分かります。