シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

無いものでなく、今あるもので何ができるか考えよう

  

                 深大寺の薔薇(12月撮影)

 

 今年もあと2日。気忙しい年の瀬だというのに、重い腰を上げようともせず

普段通りに過ごしているのは、ベテラン主婦のゆとりなのか開き直りなのか…。

 

 大掃除ならぬ小掃除レベルで片付け始めたマイルーム。我ながら呆れるほど

紙工作用の材料が棚に、机の引き出しに、そして床にあふれています。カードや

手帳作りのためにストックしたもので、その重量たるや、ちょっとしたヘビー級。

 それだけあれば、もう買い揃える必要はないのですが、文具や100均のお店で

新製品の折り紙やデザインペーパーを見つけると、つい衝動買いをしてしまい

ます。使い切れないし、もう十分と分かっていても欲しくなるのが困りもの。

熱烈なコレクターの心理に近いものがありますね(^o^;)

 

 振り返るに私の紙好きは、幼い頃に父からもらったピンク色の薬包紙から

始まったようです。父の勤務先である公立病院を訪ねた時、折り紙用にと

分けてもらった頓服用の紙。お店では売っていない特別の紙をもらったことが

嬉しくて、それから紙が好きになり集めるようになりました。

 

 消費しきれないものを買いだめするのは、実にもったいない話です。だから、

無いものでなく、今あるもので何ができるか考えよう。来たる2024年も、

そんな葛藤と戦いながらの一年になるのでしょうね(-_-;)

 

 アーネスト・ヘミングウェイが言った言葉です。まさに言い得て妙!

     持っていないものでなく

     持っているもので

     何ができるかを

     考えよう。

 

 今あるもので最善を尽くすこと。無いもののことを考えてイライラ、クヨクヨ

するのは時間のロス以外の何ものでもありません。今あるものから工夫が生まれ、

知恵が湧くこともあります。思いがけないひらめきや発想が上から降ってきたり、

浮かんでくることもあるのですから…。

 

 これは、紙など物質的な持ち物についてだけでなく、神さまから与えられた

賜物(たまもの=ギフト)についても同じように言えるのではないでしょうか。

人にはあって自分にない賜物を羨むのではなく、自分が受けた賜物をいかに

使うか。贈り主が喜んでくれることに思いを巡らし、最大限に自分の賜物を

用いて歩んで行けたらと思います。

 

 今年もブログ「シャロンの薔薇」にご訪問いただき、ありがとうござい

ました。ゆっくりペースではありますが、これからも徒然に綴っていきたいと

思っておりますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 来年が皆さまにとって良き一年になりますよう、お祈りいたします。

嗚呼、幻のSeria368ノートを求めて

 

 

 12月も半ばを過ぎ、来年のカレンダーや手帳、ダイアリーを準備する

季節になりました。とりあえずカレンダー、手帳はお気に入りのものが

手に入り、ホッとしています。 ただダイアリーだけが去年までと違う

ものになったことについて、ちょっとつぶやいてみます。

 

 もう何年も前から100均Seriaの「368ノート」A5サイズにカバーを

つけて使っているのですが、一昨年あたりから店頭ではほとんど

見かけなくなりました。行く度にノートの棚をチェックしていたので、

これは間違いありません。人気商品なので買い占める人がいるのかなと

思っていました。

 いつも2、3冊を買い置きしていたので、今年の分までは間に合って

いたのですが、いよいよ2024年の分は手に入らず仕舞いでした。

 

 長男にその話をすると、ネットで調べてくれて、A5版368ノートは

もう製造販売されておらず、代わりに336ノートに切り替わったようだと。

1年は365日ですから、336ページでは何とも中途半端ですよね(~_~;)

「なぜに?」という疑問と不満が入り交じる思いでいると…。

 

「新たにA6版の368ノートが出たみたいだよ」と長男のことば。

A6版というとA5の半分のサイズです。文庫本の大きさなので、かなり

小さめ。今まで自分流にカスタマイズして、たっぷり書き込んでいたので

絶対に物足りなさを感じるだろうなと。仕方がない、2024年は大学ノートか

ルーズリーフで間に合わせようと考えていました。

 

 「1冊110円だし、ダメ元で2冊予約してきたよ」と、またしても長男。

昨日、Seriaの店舗から入荷の連絡があったので受け取りに行くと、

可愛らしいミニ版368ノートが2冊。開いてみると、サイズダウンしただけで

中の使用はA5版と全く同じです。一日の出来事をメモするだけなら、

これで十分かなと、「物足りなさ発言」は撤回することにしました。

小さくても使い慣れた仕様のノートのほうが良いに決まっています。

来年度からはこれで決まり!骨を折ってくれた長男にありがとう、です(^^)

「何をしたか」ではなく「何をしなかったか」

   

 

 今朝の読売新聞コラム「編集手帳」に面白いことが書いてありました。

江戸幕府は12月13日を「煤(すす)払い」と定めていて、武家も商家も

なく掃除一色。江戸時代の人は、かなり早い時期に大掃除をしていたのですね。

 コラムにも「除夜の鐘までにこれほど日数があれば、1年のいいこと、

わるいことをいろいろ思い出すだろう。」と書いてありました。また、

文筆家の頭木弘樹さんの言葉も紹介されています。

 「何をしたか」ではなく、「何をしなかったか」も大切ではないでしょうか。

 人を傷つけなかった、人の上に立とうとしなかった、差別しなかった、欲に

 おぼれなかった…」(対談集『心と体でケンカする』 横道誠共著より)

 

 これはちょっと目からウロコの発想でした。毎日、簡単なメモ日記を

つけていますが、内容の8割9割は「何々をした」こと。「しなかったこと」を

書くのは、ごく稀なのだと気づかされました。「したこと」は、よく分かります。

でも、「しなかったこと」を意識することはなかなかありません。ここでは

「結果として、しなくて良かったこと」が挙げられていますが、それとは逆に

「しなかったことが悔やまれる」場合もあります。例えば、席を譲るべき方に

声掛けのタイミングを失い、バツの悪さで小さく縮こまっていた時などは

「しなかったこと」への後悔が心を占めますが、内面の弱さを認めたくなくて、

あえて「しなかったこと」を封印してしまうことも…。

 しないで良かったこと、したほうが良かったこと、つまり「しなかった」

ことが表立つということは少ないのだろうなと…。

 

 コラムは次のように締めくくっています。

 「何をしたかに比べ、何をしなかったかは かなり気づきにくいと思われる。

 心のそうじも必要だろう。目立つほこりを払えば、その下に案外たくさん

 見つけられそうである。」

 

 12月。大忙しの年末にさしかかる前に、心の大掃除に取り掛かるのも

一考かもしれませんね(*^^*) 不安、恐れ、憎しみ、羨望、失望、自己憐憫…。

そういうネガティブなホコリ(感情)を箒で履き出してみたら、自分が

「してこなかったこと」「すべきこと」も見えてくるのではないかと…。

 

※写真は2009年からつけている「しおんの夢ノート」。「しおん」は私の

ハンドルネームです(^^) 年始に一年の計を書き出し、年末に総括。これも

自分史の一つですので、今後も継続していきます。

You Tubeが何でも教えてくれる良い時代

  

 11月末、恒例のクリスマスカード作りがようやく終了しました。

カードは教会の皆さんに1セット150円でお買い上げいただき、

売上金は毎年クリスマス献金としてささげています。ささやかな

ささげものですが、秋頃から心を込めて作ったカード。 皆さんが

笑顔でカードを選んでいるのを見ると私も幸せな気持ちになります。

ちなみに、今年も完売。2枚の追加注文もありました(^o^;)

 

 もう10年余り続いているでしょうか。初めの頃は作業机の前に

座ると、アイディアが上から降りてきて、オリジナルのカードが

出来たものですが、だんだんアイディアが枯渇して、ひらめきが

めっきり減りました。さて、どうしたものかと斬新な図案を求めて

ネット探訪の始まり、始まり―。

 

 いやいや、分かっているものの、ネットの世界はすごいですね。

どんなジャンルであっても情報満載。初級・中級・上級者向きの

物創りのノウハウが動画で懇切丁寧に配信されている。You Tube

いうものが、こんなに便利でありがたいものだと、今更ながら

再認識しています。

 

 カード作りが趣味と喧伝している私としては、たとえアイディアを

お借りしても、オリジナリティーは残したい。その感覚は固守しながら

今年もざっと25図案×3枚、計75枚ほどを作成しました。

 

 家事の合間の手仕事ですので、一日1枚の日もあって、なかなか

終わりが見えない状況なのですが、とにかく楽しいの一言。自分の手を

離れたカードが、書き手のメッセージを載せて、誰かの手に渡ることを

想像するとワクワクします。素晴らしい才能を惜しげもなく世に発信して

くださるユーチューバーの方々には心から感謝、ありがとう! です!

 

 

動画や無料素材の図案を参考にして作ったカードが並んでいます。

黄昏(たそがれ)色はどんな色?

  

 

 よく「黄昏時(たそがれ・どき)」とか「黄昏色(たそがれ・いろ」

という言葉を耳にしますが、黄昏とはどんな時間帯のことで、どんな色を

指すのか、よく分からなかったのでネットで調べてみました。

 

 「たそがれ」とは夕暮れ時をさすそうです。古くは「たそかれ」と言い、

江戸時代以降に「たそがれ」と言われるようになったのだとか。 夕方、

辺りが薄暗くなる頃、出会った人が顔見知りかどうかを確かめるために、

「そこにいるのは誰ですか?」と言葉を交わす習慣があったとのこと。

いつの世も暗闇は物騒なもの。防犯の意味もあったのかもしれません。

 

 「そこにいるのは誰?」 昔風に言うなら「誰そ彼(かれ)?」

黄昏は「あなたはだあれ? の声掛けが元で始まった言葉だったのですね。

 

 さて黄昏色ですが、空が夕焼けに輝く黄金色を指すようです。

ただ、私の勝手なイメージでは、淡いサーモンピンクに青灰色が混じった空。

色のイメージって伝統色はかくあるべし…という観念にこだわらず、

人それぞれ違って良いのではと、これまた勝手な思い込みですが(~_~;)

 

 上の写真は夫の母が晩年に刺したクロスステッチの風景画。どことなく

黄昏色っぽい感じが漂う作品だと私は思っています。「黄昏」には比喩として、

「最盛期は過ぎたが、多少は余力があり、滅亡するにはまだ早い状態を表す」

という意味もあります。母の作品には、まさに母の晩節が投影されている

印象があります。人生の四季で言うなら、冬が終わりを迎える頃、それでも

趣味の手は休めない。ひと針人針に心を込めて、人生の黄昏時を過ごして

いたのでしょうね。

  

 さて、今日の黄昏時の色はどうかと窓の外に目をやると、残念ながら

今日は見事な曇天。黄昏色の空はまた、明日以降のお楽しみにして…。

 

 

一粒の星、輝いて


 あの常識外れの暑さはどこに? 一気に押し寄せてきた寒気に

慌てて冬支度をする今日この頃。皆さまはいかがお過ごしですか。

 

 珍しく今週は外への用事もなく、フリータイムを楽しんでいます。

書棚を片付けながら、ふと、私の好きなエピソードが載っている

星野富弘さんの本のことを思い出し、また読みたくなって取り出して

みました。『四季抄 風の旅』立風書房)という詩画集の中の

「一粒の星」というエッセイ、とにかくユーモラスで大好きです。

こんな内容です。

 

 後頭部に十円玉くらいのはげがあるそうです。怪我をして、ずっと

上向きのまま寝ていたので、すれて、はげになったのだと。はげを

気に病んだこともあったけれど、それが思わぬところで役に立つ

ことも。星野さんは体操指導中の怪我が元で首から下の感覚が

ありません。その代わり、首から上は非常に敏感なのだそうです。

頭が痒くても手が動かないので、自分では搔けません。しかも頭の

上下には明確な区切りもない。そこで思いついたのが、はげを利用

することでした。お母さんに「かあちゃん、はげの上が、かいい」

と言うと、お母さんは一発で手を当てたそうです。手がかりの

なかった頭に区画整理が行われ、痒いところに手が届くように

なったのだとか。そして、最後のフレーズが素晴らしい! 

「今もはげは、私の頭に一粒の星のように輝き、健在である」と。

 

 A.デーケンさんが「ユーモアとは、にもかかわらず笑うこと

である」という名言を残されましたが、本当にその通り!! ふつう、

置かれている状況からは容易に浮かんでこないであろう、星野さんの

類まれなるユーモアセンスには感心するばかりです。

 

 これも、私の大好きな星野さんの一編の詩。

 

    「悲しみの意味」

 

   冬があり 夏があり

   昼と夜があり

   晴れた日と

   雨の日があって

   ひとつの花が咲くように

   悲しみと

   苦しみもあって

   私が私になってゆく

 

 悲しいことも、苦しいことも通り抜けた後に、そこには必ず

開花がある。実りがある。確かな救いの道が見えて来るようです。

 

 

 

 

 

晩節を 輝いて生きるために

 タイトルに“晩節”と書いて、我ながら苦笑してしまいました。

金婚式も迎えたし、正直、残り人生のカウントダウンは始まって

いるので、晩節に違いはないのですが…(~_~;)

 

 文字がぼやけたり、二重に見えたりと目に違和感を持つように

なってから読書量が減っていた昨今ですが、最近、ブックオフ

立ち寄った時、面白そうな本を見つけたので4冊ほどの衝動買いを。

 

 その中の一冊、コラムニスト 中野翠さんの『いくつになっても』

(副題:トシヨリ生活の愉しみ)は、今の私の境地そのままの

エッセイ集でした。ページを繰るごとに「本当にそう!」「あるある!」

「なるほど!」「やっぱりね~!」と、頷いたり、苦笑したり。

 

 エピローグ前のエッセイのタイトルは「老い」。独特な言い回しで

生と死を捉えているのが面白かったので、一部紹介したいと思います。

  

  こんなに面白く味わい深い「この世」というもの―。それなのに、

 いつか私も姿を消すんだなあ、フェイドアウトするんだなあ、「無」と

 いうことになるんだなあ。

  それは今のところ恐怖だけれど、それでもわずかに救いはある。

 多くの場合、人は自分の死を実感できない。生まれた時に「今、私は

 生まれた」という意識が無いのと同様、死んだ時も「今、私は死んだ」

 と、死を実感することはできない。それは、ささやかな救いという

 ことにならないか? 人生の最初と最後は無意識なんですね。

  とりあえず、生きているのだから、ありがたく思って生きて行こう。

 できるだけ面白く楽しく。心の中の青空を探しに行こう。…

    中野 翠著『いくつになっても』より引用(出版:㈱文藝春秋

 

 人間は、生まれた・死んだという実感がない。最初と最後が無意識

というのは、確かに、そうなのかもしれませんね。 それが救いになるか

どうかは、人それぞれの考え方としても…。

 

 「太陽と死は直視できない」という、ロシュフーコーの有名な言葉が

あります。確かに太陽は絶対に直視できません。死は、誰でもじっと

見つめることを避けたいものです。ただ100%、死に直面するのも人間の

現実です。もし死に向き合うことに冷静でいられるとすれば、死の向こう

側にある未知の世界に希望が見えること。そうは言えないでしょうか。

 肉体はいつか必ず朽ちます。ただ、イエスさまが死に打ち勝って、

よみがえってくださったこと、イエス様の復活を信じるクリスチャンが

永遠に続くいのちを戴けること。そして、イエスさまが天国に場所を

用意して迎えに来てくださること。それを信じるが故のクリスチャンの

幸いに、感謝するばかりです。

 

 あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを

信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。

そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、

と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、

また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

             (ヨハネ福音書13章1-3節)