タイトルに“晩節”と書いて、我ながら苦笑してしまいました。
金婚式も迎えたし、正直、残り人生のカウントダウンは始まって
いるので、晩節に違いはないのですが…(~_~;)
文字がぼやけたり、二重に見えたりと目に違和感を持つように
なってから読書量が減っていた昨今ですが、最近、ブックオフに
立ち寄った時、面白そうな本を見つけたので4冊ほどの衝動買いを。
その中の一冊、コラムニスト 中野翠さんの『いくつになっても』
(副題:トシヨリ生活の愉しみ)は、今の私の境地そのままの
エッセイ集でした。ページを繰るごとに「本当にそう!」「あるある!」
「なるほど!」「やっぱりね~!」と、頷いたり、苦笑したり。
エピローグ前のエッセイのタイトルは「老い」。独特な言い回しで
生と死を捉えているのが面白かったので、一部紹介したいと思います。
こんなに面白く味わい深い「この世」というもの―。それなのに、
いつか私も姿を消すんだなあ、フェイドアウトするんだなあ、「無」と
いうことになるんだなあ。
それは今のところ恐怖だけれど、それでもわずかに救いはある。
多くの場合、人は自分の死を実感できない。生まれた時に「今、私は
生まれた」という意識が無いのと同様、死んだ時も「今、私は死んだ」
と、死を実感することはできない。それは、ささやかな救いという
ことにならないか? 人生の最初と最後は無意識なんですね。
とりあえず、生きているのだから、ありがたく思って生きて行こう。
できるだけ面白く楽しく。心の中の青空を探しに行こう。…
中野 翠著『いくつになっても』より引用(出版:㈱文藝春秋)
人間は、生まれた・死んだという実感がない。最初と最後が無意識
というのは、確かに、そうなのかもしれませんね。 それが救いになるか
どうかは、人それぞれの考え方としても…。
「太陽と死は直視できない」という、ロシュフーコーの有名な言葉が
あります。確かに太陽は絶対に直視できません。死は、誰でもじっと
見つめることを避けたいものです。ただ100%、死に直面するのも人間の
現実です。もし死に向き合うことに冷静でいられるとすれば、死の向こう
側にある未知の世界に希望が見えること。そうは言えないでしょうか。
肉体はいつか必ず朽ちます。ただ、イエスさまが死に打ち勝って、
よみがえってくださったこと、イエス様の復活を信じるクリスチャンが
永遠に続くいのちを戴けること。そして、イエスさまが天国に場所を
用意して迎えに来てくださること。それを信じるが故のクリスチャンの
幸いに、感謝するばかりです。
あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを
信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。
そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、
と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、
また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。
わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。