シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

あえて “じゃがいも” を描く

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絵画教室では、きれいな花や特徴あるオブジェをモチーフに

描くことが多いのですが、時間がたっぷりあるコロナ禍中の今、

あえて、平凡な “じゃがいも” を描いてみました。

手を変え、姿を変え、味つけされて食卓に登場する常備菜

そんな、ごくありふれた野菜ではありますが、よく見ると

一個一個、形も表情も違って面白い素材であることに

気が付きます。単純ゆえに、むしろ絵にするのは難しいのですが、

身近なものを観察して描くのも、良い勉強になります。

 

身近なものを素材にした、星野富弘さんの詩画集の中にも、

“じゃがいも”をモチーフにした詩画がいくつかあります。

 

  じゃがいもの花

       

 泥だらけになって

 じゃがいもを

 掘っていた時

 ふと見上げた空が

 手でさわれそうなほど

 近かったことを憶えている

 高い所にあこがれ

 山の頂に

 立った時

 なんにもない空が

 果てしなく遠かったことを

 憶えている

          『鈴の鳴る道』(偕成社)より

 

柔らかい土の感触、空を仰いだ時に感じる天の高さ。

純真無垢な子どもの頃に感じた懐かしい感覚が、

ふと、五感によみがえるようなフレーズが快いですね。

 

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ベランダでのプランター栽培ですので僅かではありますが、

今年も大小取り混ぜ、収穫することができました。

 

他の食材と、あまりケンカすることのない頼りになる料理番の助っ人。

そんな “じゃがいも” が大好きです。

ことばには、その人の本質が宿っている

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幼いころから書くことが好きで、心に浮かぶままに文字にして

いました。作文が好きというより、鉛筆や消しゴム、ノートを

集めることや、字を書くことが好きだったのでしょう。

 

最近は筆記具に代わってPCでの書き込みになりましたが、

文房具好きも継続中。ペンやノートは、もはやコレクション。

眺めて楽しむオブジェと化しています(-_-;)

 

30年近く自分史講座で学んでいますが、講師曰く、良い作文とは

「読み手が気持ちよく読める文章」「一気になめらかに朗読できる

文章」なのだそうです。この塩梅(あんばい)が、なかなか難しい。

なんとかその域に近づくように、何度も推敲を重ねるのですが、

自己評価できる作文は数少ないですね。

 

マタイの福音書12章34節に、こう書いてあります。

「‥心に満ちていることを 口が話すのです。」

 

思わず口をついて出ることばに、その人の本音が透けて見える

ことがあります。本心を隠すために、ことば数を増やし、表現を

変えて言いつくろっても、聴く人には、虚しく響く単語の羅列に

しか過ぎない。つまり「心にもないことを‥」というような、

そんな経験のある人は、けっこう多いのではないでしょうか。

 

ゲーテの逸話を聞いたことがあります。ゲーテの家は、著名人が

よく集まる場所だったそうですが、宴もたけなわ、気を許した

者同士の会話の中心は、自慢、陰口、妬み、蔑みなどなど。

ゲーテは眉をひそめ、客に言いました。

「ゴミは落としても良いですが、悪いことばは全部、家に持ち

帰ってください。悪い言葉は空気を汚染するのですよ」

 

ことばには、その人の本質が宿っているのですね。口から出る

ひと言の重さ、文章にする一言の重さ。しっかりと、心に

留めておきたいと思います。

 

こんな詩もありました。付記しておきます。

 

 「美しさ」   河野 進

 

 川の美しさは 清い水の一滴から

 海岸の美しさは 白い砂の一粒から

 木の美しさは 緑の一葉から

 人の美しさは やさしい一言から

 

※写真はカラスウリの花と実。実はアクリル画

朝日は一人で、夕日は誰かと一緒に

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あと2、3ヶ月したら、あと半年もしたら‥と、コロナが

鳴りを潜めてくれるものと期待して、はや1年半あまり。

いっこうに感染拡大に歯止めが効きません。

自粛生活も慣れてきたと言うより、もう惰性のような感じ(-_-;)

大きな制限がある中、何かを始めようにも、なかなか

やる気スイッチが入らず、無為な時が流れていきます。

 

若い方には的外れな話題かもしれませんが、私自身を含め、

それなりにお年を召した皆さん、コロナ禍にあるフレイル

というものを、どう捉え、どう向き合っていますか?

 

最近よく目にするフレイルという言葉。「虚弱」という

意味があるそうです。人間、年を取れば体力も知力も

精神力も弱まっていきます。もっと分かりやすく言うと

フレイルとは、要支援・要介護の一歩手前の時期をさす、

現代用語のようです。生活の多方面で、「昔のようには

出来ないな~」という自覚がある我が身には、「フレイル、

そんなの関係ない」とは絶対に言えないですよね。さらに

コロナがフレイルに拍車をかける。これが深刻な問題です。

 

多くの真面目な人はマスクや手洗いを徹底し、行動自粛に

協力しています。趣味のサークルや、会食、ショッピング、

旅行も、しばらくはお預け。さすがに一人遊びが得意な私も、

ボテボテの時間守りに入ってきた感があります。みんな、もう

うっぷんでいっぱいいっぱい。うっぷんが詰まったバルーンが、

今、パチンと弾けても何の不思議もありません。

 

こんな言葉を聞いたことがあります。

「朝日は一人で仰いでも良いが、夕日は誰かと一緒に眺めたい」

 

さんさんと降り注ぐ朝日は、恵みを一人で享受するも良し。

しかし、疲れた下り坂で眺める夕日は、誰かと一緒のほうが良い。

 

初めは一人でも元気もりもり。だけど、いろんなことがあった

後の終着地点、そっと誰かが寄り添ってくれたら心強い。

そう思う気持ち、とても深く共感できますね。

誰でも年をとります。だんだん力が弱くなってきます。もちろん

自立した高齢者もたくさんいます。でも、人生の最終章に臨む時、

人は人を必要とし、心と心の触れ合いを求めるようになるのでは

ないでしょうか。

誰ひとり避けて通れないフレイルの時。誰かを必要とする移行期が

あるのだということを、しみじみ考えさせられます。

 ※朝顔=Morning Glory。

 

 

 

向日葵(ひまわり)のような人

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もう20数年前のこと。ドイツ人宣教師S先生が教会を訪ねて

きました。教会の主任宣教師だったB先生と神学校時代の同期で、

親友でもあったことから、二人はいつも協力関係にあり、よく

教会を訪ねていたのを覚えています。明るく、フレンドリーな

S先生とは、皆、すぐ仲良くなりました。

 

B先生はすでに、上手に日本語を話されていましたが、もう少し

基礎を教えてほしいという要望があり、週に一回程度の

レッスンを引き受けていたことがありました。B先生から伝え

聞いたのか、しばらくするとS先生からも、「変な日本語が

あったら直してください」という依頼のメールがあり、以来、

問答形式のメールをやり取りするようになりました。

「いくつか説教題を考えました。どれが内容にふさわしいと

思いますか」という問いかけもあり、これは責任重大と

一生懸命に聖書を読んで答えたのを思い出します。今日の

タイトルもそうだったと記憶しています。

 

他教会で働く宣教師さんと、こうして親しいメル友になるのは、

めったにないケースかもしれません。神さまも粋なプレゼントを

用意してくださるものです。

 

S先生とは、他の件でも深い関わりを持つことになりました。

生まれ故郷の気仙沼市は、ご承知の通り、東日本大震災

よる大津波で甚大な被害を受けました。姉の家も倒壊し、

仙台への転居を余儀なくされました。

 

喪失感と、虚無感、絶望感が漂う港町に、S先生は赴くことに

なりました。慰問で何度か訪れてはいたけれど、被災地支援は

一過性のものであってはならない、継続しなければ意味がない

というのが、S先生の持論だったようです。母国ドイツの宣教団の

協力により、一つのチームが編成されて派遣され、支援活動も、

より充実したものに整っていきました。一関市に居を構え、

車での移動カフェ、バイブルクラス、仮設住宅訪問などなど。

被災地の人々と共に重荷を負い、復興に尽力し、傷ついた人の

心に寄り添ってくれたS宣教師とクリスチャン・チーム。彼らの

尊い働きには感謝の言葉しかありません。

 

そのS宣教師、志半ばにして病に倒れ、2017年12月に天に

召されました。53歳という若さでした。召される8日前に届いた

メールに書いてあった最後の言葉は「シャローム」でした。

その意味は、「さようなら、平和があるように」。

 

2003年8月31日。S先生の礼拝説教題は「向日葵のような人」

でした。自分の力では解決できない困難な状況があっても、

光である神さまへ心を向けることの大切さを歌った、ダビデ王の

祈りの詩篇です。ダビデがそうであったように、S先生もまさに

向日葵のような人でした。光に向かって顔を上げ、歩む生き方。

私もそうありたいと心から思います。

 

私の目はいつも主に向かう。

主が私の足を罠から引き出してくださるから。

          詩篇25篇15節

 

※写真は指で描いたパステル画の早描き。下手です(-_-;)

心を研いでくれる友の存在

 

聖書は心に響く言葉の宝庫です。多くのクリスチャンは、

いくつもの愛唱聖句を持っています。

私の好きな聖句の一箇所、箴言(しんげん)27章17節を、

3通りの訳で書いてみます。“友”の本質を突いています。

 

鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。

                  新改訳

鉄は鉄をとぐ、そのように人はその友の顔をとぐ。

                  口語訳

鉄は鉄をもって研磨する。人はその友によって研磨される。

                  新共同訳

 

どの訳もそれぞれに味わいがありますね。微妙なニュアンスを

別訳の聖書で読み解くのも、なかなか興味深いものです。

 

ざらざらした所を滑らかにし、デコボコを平らにする。

研磨することで弱点が均(なら)されていく、砥石のような

役を担ってくれる友の存在は、ありがたいものです。

 

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この壁掛けを作って贈ってくれた友だちも、私をよく研いで

くれる大切な友人の一人。遠く離れていて、ほとんど会うことは

ありませんが、電話で漏らす心配事、相談事に真剣に耳を傾け、

最適解の回答をしてくれます。頼もしい、心の拠り所です。

30年来のお付き合いで、同じ信仰を持つ者同士ということもあり

ますが、相性の良さもあるのでしょう。感性も考える方向性も、

趣味、嗜好も似ているので、多くを語らずとも通じ合えるのです。

ゴツゴツしたものを削り取る砥石と言うよりは、小さなゴミ粒を

さっとぬぐってくれる、なめし革? そんな快い間柄です。

 

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雑誌に載っていた作品を見て、自己流にアレンジしたという壁掛け。

一つ一つに物語がありそうで、楽しくなります。かなり昔、

プレゼントして頂いたものですが、以来、ず~っと飾っているので、

だいぶ色も褪せてきました。でも、まだまだずっと癒やしてもらう

つもり。大切な私の宝物です。

 

 

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これも作者は同じ友。デコパージュという手法でしょうか。

こちらは食器棚に置いています。わが家は女手は私だけ。金婚式まで

あと数年。さすがにもう、三度のご飯作りはくたびれた~(-_-;) 

重い腰を上げ、このボードを見ながら、「やる気スイッチ」を

入れる今日このごろです。

 

さて、聖書の言葉に戻ります。

鉄は鉄によって研がれ、人はその友によって研がれる。

 

研ぐにせよ、研がれるにせよ、時に心がチクッとすることも

あるかもしれませんが、ほどよく磨かれて滑らかになるなら、

そんな痛みはいっときのもの。

心を研いで整えてくれる、友の存在には感謝あるのみです。

 

パッチワークの妙、金継ぎの美に思うこと

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手仕事は好きですが、針仕事は苦手な部類に入ります。

それでも昔、一度はやってみたくてパッチワーク教室へ

通ったことがあります。でもやはり、苦手意識が先に立ち、

短期間でギブアップ。1ミリの狂いもなくピタッと継ぎ合わせる

技術の、なんと難しいこと‥。パッチワークとは本来、ボロ継ぎ

という意味なのだそうですが、いやいや、ボロどころか、これは

まぎれもないアートですね(^o^;)

 

初孫の誕生祝いにと思い立ち、作り始めた三角形✕8枚のパーツ。

結局、敷布団にアップリケするだけの簡単仕上げで終了。

残った数枚のパーツは、10年以上も放置状態でした。せっかく

チクチク縫い合わせたパーツですので、なにか使い途はないかと

思い巡らし、枕カバーを作り、縫い付けてみることにしました。

不格好な所はさておき、まずはパッチワーク仕上げということで‥。

 

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陶芸にも欠けたところを継ぐ技術があります。金継ぎと言って、

金色の漆を塗ってヒビ割れたところを修理していくわけです。

金色の継ぎ目は美しく整えられ、器に新たな息が吹き込まれたかの

ように生まれ変わります。

 

神さまの手で練られ、作られた土の器である人間も同じです。

欠けて見苦しくなったところが、金にも優る神さまの修復の

手のわざによって、新しく生まれ変わることができるのです。

繊細に、しかも強靭に私たちを修理してくださる神さまの

メンテナンスは最強。 ただ、感謝ですね。

 

 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、

 キリストの 死と同じようになっているのなら、

 必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

       ローマ人への手紙 6章5節(新改訳 第2版)

 

※写真の器は染料を筆で塗って、薄く色付けしてみました。

 まだヒビ割れていませんが、いつか金継ぎする日が来る

 かもしれません^^;

 

 

使い切ることの快感

もともと、物をため込む傾向があり、あらゆる種類のガラクタが

所狭しと部屋を占領しています。特に布、紙のたぐいは捨てがたい。

いつか、何かにリメイクするつもりが、積もり積もって飽和状態に。

 

それでもですね。。。

小さな小さなハギレでも、こんな風に変身するのですよ。

 

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俳句が趣味の夫のために、現役時代の頃の古ネクタイを使い、せっせと

俳句手帳カバーを作っています。ネクタイをほどき、いちばん幅広の

ところを使うと、手帳カバーにピッタリのサイズなんです。ところが

何十本もあった古ネクタイも残り僅かとなりました。もうこの先、

布に限らず、新しいものは出来るだけ買わないようにと決めています

から、知恵を絞って廃物利用に徹しようと‥。

 

手帳カバー用に裁った後のネクタイの細い部分。かなりの量が

あります。それを適当に小さくカットして、接着芯の上に配色しながら

並べ、置いていきます。アイロンで固定してから、適当に押えミシン。

継ぎ目のところにジグザグミシンをかけると、なんと、シルク100%の

豪華なクロスの出来上がり!

 

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あとは3冊セットで100円のメモ帳にカバーリングするだけ。

裏と表、どんな模様が出てくるかも楽しみです。

 

明日はゴミ箱行きにもなりかねないハギレの大変身。一度、使い切る

ことの快感を味わうと、けっこう病みつきになりそうです。