シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

「とげ」を持ったままで

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大伝道者パウロには、〝とげ〟があったと聖書に
書いてあります。


〝とげ〟とは、欠点、弱点、短所、ハンディキャップ‥
といった意味合いのものでしょうか。


とげが体の一部に刺さったままだと、体全体が
不快指数に満たされ、やる気消失。誰でも一度は、
そんな経験があると思います。 


パウロの〝とげ〟が何を意味するのか、明らかでは
ありませんが、目に何らかの疾患があったことも、
関係しているかもしれません。人に不快感を与える
ものなら、伝道には不利だったことでしょうね。 

「(伝道の妨げとなる)、この〝とげ〟を取り去って
ください」と、パウロ3回も神さまに懇願しています。
〝とげ〟さえなければ、もっともっと大胆に行動できる
のに、宣教できるのにと。


ところが神さまは、そんなパウロの願いをサラリと
交わします。

「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は
弱さのうちに完全に現れるからである」
      (コリント人への手紙 第二 129節) 


私たちの弱いところにこそ、神さまの力が現れる。
それなら〝とげ〟があっても、別に問題はありません。
駄目な所はそのままで、堂々としていれば良いのです。 


「弱さに秘められた真の強さ」を理解したパウロは、
素直に自分の〝とげ〟を受け入れました。

パウロと同様に、私にも、これさえなければ‥という
欠点、弱点は多々あります。そのせいで諦めたこと‥。
数えきれません。 


でもパウロは、神さまのことばを理解し、喜んで自分の
弱さを誇ろうと心の向きを変えることができました。
だから私も同じように、ありのままの自分を受け入れ
ようと思います。 


弱さを受け入れた人は、高慢な心が砕かれ謙虚になる
でしょう。他の人の弱さにも、共感できるようになる
でしょう。人にも優しくなれるでしょう。 


自分の弱いところにこだわり続けないで、ただ自分に
与えられた賜物(たまもの)を輝かせて生きようと
するなら、ホッと肩の力も抜けそうですね。
なんだか、心が晴ればれとしてくるようです。

※写真の絵は、マダム・ビオレというブルーローズ。
今夏、少し手直しして美術展に出品しました。
とげは痛いけれど、息を呑む美しさです(*^^*)


母を想う季節

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今年も母の日が近づいてきました。
年を重ねても、母を想う気持ちに変わりはありません。
もう18年になります。母が天国に召されたのは。

5月初旬、北国ではまだ桜が咲いていて、病院の窓から
風に舞う桜の花びらを、一緒に眺めた日のことが
想い出されます。

毎年5月になると、母を偲んで鉢花を届けてくれた兄も
昨年の夏に他界。外へ目をやれば百花繚乱の賑わいですが、
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シーズンを過ごしつつあります。

精神科医であった神谷美恵子さんの著書『こころの旅』の
中に、興味深い文章を見つけました。
 
「人生の出発点はいつかと言えば、まさに受胎の瞬間と
 みなすべきであろう。もちろん本人も母親も、ましてや
 父親も、それを自覚しているわけではない。このことは、
 考えてみれば驚くべきことである。
  人生は発端からして人間の意識を超え、同じ終末も
 意識のまどろみの中で迎えるようにできているらしい。」
            
聖書には、人の出発点についての記述が多くあります。
例えば、神さまが預言者エレミヤに語ったことば―。

 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から あなたを知り、
 あなたが母の胎を出る前から あなたを聖別し、国々への
 預言者を定めていた。」  (エレミヤ書1章5節)

エレミヤの人生は、彼が生まれるずっと前から、神さまの
ミッションによって定められていたのですね。

母の臨終に立ち会った時、確かに母は朦朧とした意識の
まどろみの中で、静かに最期の時を刻んだようでした。

人生の出発点も終末の時も、神のみぞ知る。

私たちが自覚することもできない、理性を超えた不思議。
これは人間に賜わった恩寵なのかもしれません。

エレミヤの人生が、丸ごと神さまに計画されたものであるなら、
私たちにもきっと、神さまのミッションがあるはずです。
そう思うと身が引き締まります。この生温さはどうか、と!

※写真は庭の鉄線花。藤色の着物がよく似合う母でした。
 五月晴れの空に映えるクレマチスに、母の思い出が
 懐かしく重なります。

和みのある人


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時間がある時に、日曜礼拝の説教メモを清書しています。
ただ、礼拝は日曜ごとにやって来るので、この先もずっと
追いかけごっこですが(-_-;)


先日、何気なく心に留まった箇所があります。

 あなたがたが私から学んだこと、受けたこと、
  聞いたこと、見たことを行いなさい。そうすれば、
 平和の神が あなたがたと ともにいてくださいます。
            -フィリピ人への手紙49節-

伝道者パウロが、ローマの監獄からフィリピ教会へ宛てた
手紙の一節です。フィリピ教会はパウロの熱心な伝道に
よって建てられました。その大切な教会の良からぬ噂を
耳にしたパウロ先生。牢屋で悶々とするうち、どうしても
一筆したためねば!と奮い立ったのでしょう。

どんな噂だったかというと‥。


教会の重鎮である、ユウオディヤとシンティケという
二人の女性の仲がギクシャクし出して教会前進の妨げに
なっているという。教会が神の家族だとしても、個の集団
です。反りが合わない、相性が悪い、虫が好かない、そんな
ことは、けっこう〝あるある話〟です。


使徒と呼ばれるヨハネとペテロさえ、性格は正反対でした。
一人ひとり、性格も、能力も、ペースも違うのですから
摩擦があって当然なのです。


それでもパウロは二人に忠告します。「一致しなさい」と。
パウロが言うのは、「すべて合わせなさい」ではなく、
「キリストと同じ思いを持ちなさい」という意味でしょう。
又は「キリストをお手本にしなさい」という助言でしょうか。

「キリストについて学んだこと、受けたこと、聞いたこと、
見たこと」を、「概念ではなく実生活に生かしなさい。
そうすれば、自ずと平和が生まれるでしょう?」と。


余談ですがユウオディヤさんとシンティケさん、まさかの聖書に
実名を公表されてしまいましたね! キーパーソンであっても
無名のままだったり、さりげない登場人物の実名が、しらっと
記録されたり‥。聖書って本当に面白い書物ですね。


さて、パウロが求める〝平和〟について思うこと――。


以前、リストラに遭って失職中の友人を、ハローワーク
勤務する親友に紹介したことがありました。親友はその道
ウン十年の大ベテラン。良い知らせが届くと期待して
待っていましたが、返って来た答えは「ノー!」でした。
理由は「“和み”がないから」と、きっぱり! 期待が
大きかっただけに、友人には申し訳なかったのですが、
親友に言わせると〝和み〟は、重要な判断基準なのだそうです。

和みのない人はどこか尖っていて険があり、仕事場で
上手くいかないケースが多いのだとか。持って生まれた
性格によるところは大きいでしょうが、生き方が反映するの
かもしれません。顔が人生の成績表とか言われたりしますが、
第一印象で本質が見透かされるとしたら、恐いですね(-_-;)

すべてのことにおいて感謝しなさい

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1月末、不注意から転倒し右足の中指を骨折。
腫れや痛みがなかったので、すぐ治るものと高をくくって
いたのですが、複雑骨折&靭帯損傷とあって、なんと全治
2か月との診断。
皆様、くれぐれも怪我にはお気をつけくださいませ。


この一ケ月半、教会と病院以外は完全な引きこもり生活。
保護のため患部を金具で固定するのですが、指寸より
1㎝ほど長いため靴が履けません。夫につま先が出る
サンダルを探して、買ってきてもらいました。2本の
ベルトは調整が利き、包帯で甲高になった足には持って
こいです。このサンダルのおかげで、どれだけ助かった
ことか。夫よ、よくぞ見つけてきてくれたと感謝、感謝。

そして今も日曜日の礼拝、木曜日の聖書を読む会への
送迎を続けてくださっている牧師のN先生。お忙しい先生に
車を出していただくのは心苦しく、治るまで休むつもりで
いましたが、「来てくれることがいちばん嬉しいのですよ」
とN先生。温かいエールに感謝、感謝。


2月末、所属する絵画サークルの企画展が開催されました。
搬入、設営、搬出、受付当番と出番はたくさんあったの
ですが、当然、参加は叶わずじまい。空いた私の穴を埋めて
くださった先生、仲間たちに、ただただ感謝、感謝。

買い物ができずに不便だろうと、家庭菜園で収穫した野菜を
たくさん届けてくれる孫たちに感謝、感謝。


骨や筋肉の回復促進のためにと、カルシウムやグルコサミン
など高額のサプリメント送ってくれた姉にも感謝、感謝。


 いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべてのことにおいて感謝しなさい。

 これが、キリスト・イエスにあって

 神があなたがたに望んでおられることです。

     
    <新約聖書
     -テサロニケ人への手紙 第一 51618節-


骨折を感謝するのは難しいことですが、聖書のことばに

あるように、それは〝キリスト・イエスにあって〟可能に
なることを、今しみじみ味わっているところです。

〝キリスト・イエスにあって〟という聖書独特の表現は、

分かりにくいですね。平たく言うとこんな感じでしょうか。

 
「十字架の上で、私に代わって、死に至るまでの苦しみを
受けてくださったイエス様。この驚くばかりの恵みを
受けているのだから‥‥」
 
私のつらさを、私以上に感じ、引き受けてくださる方がいる。
その一体感に覆われる時、私たちの悲しみは喜びに、嘆きは
感謝の祈りに変えられるのではないでしょうか。
驚くばかりの恵み! アメイジング・グレイスです! 


 人生初めての骨折でしたが、この経験を通して得たこと、
たくさんの親切、たくさんの恵みを忘れずにいようと
思います。そして、ますます、キリスト・イエスにあって、
すべてのことを感謝に変える人生を目指したいと思います。

写真上:昔、長男が教会学校でもらった豆カード
写真下:今、履いているサンダルとシューズ 


ガラクタから花を咲かせよう

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 人はマドンナを彫刻しようと、
 白檀(びゃくだん)の木を探しながら、
 材木置き場で蹴とばしている 樫(かし)の木の中に
 美しいマドンナが隠されているのに
 気づかずにいるのです。
              J.Rミラー)


 物作りの極意が何たるかは別として、高価な材料を
ふんだんに使えば良いものができるという、そんな単純な
話ではないはずです。もちろん素材を吟味することは
大事ですが、お金をかけなくても、手持ちの材料だけで、
満足を得る作品を生み出すことは可能でしょう。まあ、
廃物利用という四字熟語を信条とする私見ではありますが。


 以前、ハンドクラフト展でご一緒したお仲間の一人から
「布のブローチ」の依頼が来ました。手作りカード専門の
私に、まったくお門違いのリクエスト。
 どうも、いたずら半分に作って帽子に付けていた花の
ブローチが目に留まったようです。クラフト展も回を重ねる
うちにアイディアも枯渇し、目新しいものがほしいのだとか。
それにしても、全くド素人の私に白羽の矢を立てるとは‥。


 まあ、とりあえずやってみようかと、押入れから材料に
なりそうな古切れを引っ張り出し、手洗いしてアイロンを
かけ、準備完了。


 夫の古ネクタイ、もう着ないブラウスなど、よく見ると
材料になりそうなものがどっさりありました。断捨離寸前の
ラクタたち、もう一花咲かせるチャンス到来です。


 お手本もレシピもないまま、無い知恵をしぼり、あーでも
ない、こーでもないと一人でブツブツ呟きながら、結局、
20個くらい作ったでしょうか。初めは、どうなることかと
途方に暮れる思いでいましたが、始めてみればなかなか
面白い手仕事です。ひょんなことから、思いがけない楽しい
時間が与えられたことに感謝しています。

聖書にこんな言葉があります。

  銀のように、これを捜し、隠された宝のように、
  これを探り出すなら、
 そのとき、あなたは、主を恐れることを悟り、
  神の知識を見出そう。
            ≪箴言245節≫

 煩瑣な日常の暮らしの中で、神さまの知恵を探り当てる
宝探しの旅を続けていきたいものです。
 

解決するということ


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エス様が生きていた時代、ギリシャ社会ではビジネス用語
として“テテレスタイ”という言葉が、よく使われていた
そうです。“テテレスタイ”とは借金や負債の返済が終了
した時に、借用証書に押される完済の証印のこと。
完済という響きには、何とも言えないスッキリ感がありますね。


 聖書には、イエス様が“テテレスタイ”と叫んだ箇所が
記載されています。十字架で処刑される前の最後の場面。
ヨハネ福音書1930節に、こう書いてあります。


 「イエスは、『完了した。』と言われた。」


いくら消そうとしても、内側から芽を出す良くない思い。
この私たちの罪深い性質を、借金に例えると分かりやすいと
思います。それは一生かかっても払いきれない、それは
莫大なものです。当然、借金を返さなければ、それなりの
罰が下されるでしょう。だから重荷を心に抱えたまま
生きていかねばなりません。


 エス様は、そんな私たちに代わって借金を支払い、受ける
べき罰を代わりに受けてくださったのです。イエス様の
十字架での死は、まさに私たちの借金を完全に帳消しにする
ための、身代わりの死でした。


 “完了した(テテレスタイ)!”というイエス様の叫びが、
他の誰でもない、私のために向けられたものだと分かった時、
初めて“罪”の問題に真の解決が与えられた気がします。
理屈ではなく、パズルの最後のピースがぴったりそこに
重なったような、ひらめき、またはインスピレーションに
近い感覚でした。
 聖書には父・子・聖霊というキーワードがありますが、
時に、この聖霊トントンと心の戸をノックすることが
あるんですね。“霊に感じて”などとも言いますが、それが
信仰への入り口になることが多いようです。


完了した、解決した‥というフレーズから、一編の印象深い
詩が浮かびます。

   解 決
          杉山 平一

古ぼけて 煤(すす)けた駅であった
その窓硝子も 煤けていた
よく駅夫が熱心に拭っていたが
すぐ もとにもどっていた

 ある夜のこと
その一枚が 戸外の闇までつやつや見えるくらい
美しく すき透っているのを見た
近づくと 硝子は割れて はずれていたのだった

 煤けた彼が 何年か願い 努め 悩んだものが
そのように解決されていた



詩人は人の心を窓硝子に例えているのでしょうか。
毎日ピカピカに磨いても、すぐ石炭のススで汚れてしまう
窓硝子。清くなりたい憧れはあるけれど、透明になり
きれない私たちの心。
どちらも解決の方法があるとすれば唯一つ。
存在を無くしてしまうこと。


物体は取り外したり、壊してしまえば存在を無にする
ことができます。また私たちは、存在(肉体)そのもの
ではありませんが、罪から出る汚れ(自我)を、イエス様に
よって葬り去っていただきました。

この詩を通し、“解決する”いうことの意味、ひいては
“完了した(テテレスタイ)”という言葉の意味を、
より深く理解できたような気がします。




探し求める人の名は?

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今年は1224日が日曜日だったので、朝はクリスマス礼拝、
午後はお祝いの会、夜はキャンドル礼拝と、ほぼ一日を
教会で過ごすことになりました。
30年近く教会に通っていますが、記憶する限り初めての
ことだったかもしれません。とにもかくにも、朝も昼も
夜も礼拝堂の席が満杯になるほど大勢の方が教会を訪れ、
アンデレ会(伝道、宣教を考える教会の組織の一つ)の
一員として、感謝の一言に尽きる喜びの一日となりました。


福音(ふくいん:Good News)を知らせることは、
クリスチャンの大きな働きの一つです。求道の初めの頃から、
私は使命感を持ってその働きに関わってきました。
長い歳月と忍耐を要する地道な働きです。それだけに、
蒔いた種が芽を出し、花開く瞬間を目の当たりにする喜びは
ひとしおです。


  私が植えて、アポロが水を注ぎました。
 しかし、成長させたのは 神です。たいせつなのは、
 植える者でも 水を注ぐ者でもありません。
 成長させてくださる神なのです。
        (コリント人への手紙 第一 36-7節)


土を耕し、種を植え、水を注ぎ、肥料を与え、雨風や虫害
から守り、念入りに手入れをする。そこまでが人の手の
わざであり、種の成長を促すわざは神様のわざ。結実は
神さまと人の共同作業の成就の喜びなのです。


一人の人が教会の門をくぐるということは、実は大変な
奇蹟なんですね。何年フォローアップを続けても無しの
礫(つぶて)のケースもあれば、昔、教会学校に通った
ことがある人が、ふと教会を訪れるケースも。あるいは
ラクト(パンフレット)を見て来る人、フリーで立ち寄る人、
聖書を学びたいという人‥。もう一度、信仰に立ち返りたい
という人。


各々、事情は異なりますが、いずれにしてもごく少数であり、
長~いスパンで待つことが大前提になります。


そんな種まきと手入れの働きに関与してきて思うのは、
だれもが〝誰かを〟〝何かを〟求めているという事実です。


 八木重吉が書いた、こんな詩があります。


 ああちゃん!
 むやみと
 はらっぱをあるきながら
 ああちゃん と
 よんでみた
 こいびとの名でもない
 ははの名でもない
 だれのでもない


 
星野富弘さんが「八木重吉への手紙」という寄稿文の中で
書いていた文を転用してみます。
     
神を知らない者が、人間の力ではどうにもならない窮地
に陥った時、誰の名を呼んで助けを求めららよいのでしょう。
「ああちゃん」の詩に、その答えが隠されているような気が
しました。あの詩を書いた人も、きっと大きな苦しみを経た
人に違いないと思いました。
         「わがよろこびの頌歌(うた)は消えず」より
                          (いのちのことば社
 
まもなく訪れる2018年も、「ああちゃん」を探し求める
人の心に寄り添って、地道に種まきを続けていこうと思います。