今年は12月24日が日曜日だったので、朝はクリスマス礼拝、
午後はお祝いの会、夜はキャンドル礼拝と、ほぼ一日を
教会で過ごすことになりました。
30年近く教会に通っていますが、記憶する限り初めての
ことだったかもしれません。とにもかくにも、朝も昼も
夜も礼拝堂の席が満杯になるほど大勢の方が教会を訪れ、
アンデレ会(伝道、宣教を考える教会の組織の一つ)の
一員として、感謝の一言に尽きる喜びの一日となりました。
福音(ふくいん:Good News)を知らせることは、
クリスチャンの大きな働きの一つです。求道の初めの頃から、
私は使命感を持ってその働きに関わってきました。
長い歳月と忍耐を要する地道な働きです。それだけに、
蒔いた種が芽を出し、花開く瞬間を目の当たりにする喜びは
ひとしおです。
私が植えて、アポロが水を注ぎました。
しかし、成長させたのは 神です。たいせつなのは、
植える者でも 水を注ぐ者でもありません。
成長させてくださる神なのです。
(コリント人への手紙 第一 3章6-7節)
土を耕し、種を植え、水を注ぎ、肥料を与え、雨風や虫害
から守り、念入りに手入れをする。そこまでが人の手の
わざであり、種の成長を促すわざは神様のわざ。結実は
神さまと人の共同作業の成就の喜びなのです。
一人の人が教会の門をくぐるということは、実は大変な
奇蹟なんですね。何年フォローアップを続けても無しの
礫(つぶて)のケースもあれば、昔、教会学校に通った
ことがある人が、ふと教会を訪れるケースも。あるいは
聖書を学びたいという人‥。もう一度、信仰に立ち返りたい
という人。
各々、事情は異なりますが、いずれにしてもごく少数であり、
長~いスパンで待つことが大前提になります。
そんな種まきと手入れの働きに関与してきて思うのは、
だれもが〝誰かを〟〝何かを〟求めているという事実です。
八木重吉が書いた、こんな詩があります。
ああちゃん!
むやみと
はらっぱをあるきながら
ああちゃん と
よんでみた
こいびとの名でもない
ははの名でもない
だれのでもない
書いていた文を転用してみます。
神を知らない者が、人間の力ではどうにもならない窮地
に陥った時、誰の名を呼んで助けを求めららよいのでしょう。
「ああちゃん」の詩に、その答えが隠されているような気が
しました。あの詩を書いた人も、きっと大きな苦しみを経た
人に違いないと思いました。
「わがよろこびの頌歌(うた)は消えず」より
(いのちのことば社)
まもなく訪れる2018年も、「ああちゃん」を探し求める
人の心に寄り添って、地道に種まきを続けていこうと思います。