シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

解決するということ


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エス様が生きていた時代、ギリシャ社会ではビジネス用語
として“テテレスタイ”という言葉が、よく使われていた
そうです。“テテレスタイ”とは借金や負債の返済が終了
した時に、借用証書に押される完済の証印のこと。
完済という響きには、何とも言えないスッキリ感がありますね。


 聖書には、イエス様が“テテレスタイ”と叫んだ箇所が
記載されています。十字架で処刑される前の最後の場面。
ヨハネ福音書1930節に、こう書いてあります。


 「イエスは、『完了した。』と言われた。」


いくら消そうとしても、内側から芽を出す良くない思い。
この私たちの罪深い性質を、借金に例えると分かりやすいと
思います。それは一生かかっても払いきれない、それは
莫大なものです。当然、借金を返さなければ、それなりの
罰が下されるでしょう。だから重荷を心に抱えたまま
生きていかねばなりません。


 エス様は、そんな私たちに代わって借金を支払い、受ける
べき罰を代わりに受けてくださったのです。イエス様の
十字架での死は、まさに私たちの借金を完全に帳消しにする
ための、身代わりの死でした。


 “完了した(テテレスタイ)!”というイエス様の叫びが、
他の誰でもない、私のために向けられたものだと分かった時、
初めて“罪”の問題に真の解決が与えられた気がします。
理屈ではなく、パズルの最後のピースがぴったりそこに
重なったような、ひらめき、またはインスピレーションに
近い感覚でした。
 聖書には父・子・聖霊というキーワードがありますが、
時に、この聖霊トントンと心の戸をノックすることが
あるんですね。“霊に感じて”などとも言いますが、それが
信仰への入り口になることが多いようです。


完了した、解決した‥というフレーズから、一編の印象深い
詩が浮かびます。

   解 決
          杉山 平一

古ぼけて 煤(すす)けた駅であった
その窓硝子も 煤けていた
よく駅夫が熱心に拭っていたが
すぐ もとにもどっていた

 ある夜のこと
その一枚が 戸外の闇までつやつや見えるくらい
美しく すき透っているのを見た
近づくと 硝子は割れて はずれていたのだった

 煤けた彼が 何年か願い 努め 悩んだものが
そのように解決されていた



詩人は人の心を窓硝子に例えているのでしょうか。
毎日ピカピカに磨いても、すぐ石炭のススで汚れてしまう
窓硝子。清くなりたい憧れはあるけれど、透明になり
きれない私たちの心。
どちらも解決の方法があるとすれば唯一つ。
存在を無くしてしまうこと。


物体は取り外したり、壊してしまえば存在を無にする
ことができます。また私たちは、存在(肉体)そのもの
ではありませんが、罪から出る汚れ(自我)を、イエス様に
よって葬り去っていただきました。

この詩を通し、“解決する”いうことの意味、ひいては
“完了した(テテレスタイ)”という言葉の意味を、
より深く理解できたような気がします。