日本ではイースター(復活祭)はあまり馴染みのない行事。
クリスマスがイエス様の誕生日なら、イースターは復活記念日。
どちらも、教会では同じくらい大切な日です。毎年イースター
の日が変わるのも、なかなか浸透しない一因かもしれませんね。
豆知識として―。
春分の次の満月から数えて最初の日曜日がイースター。
因みに今年は4月21日でした。
この日、私が通う教会では、午後にオープンチャーチが催され
ました。やや趣きを変え、この日は教会牧師による文化講演会。
テーマは「祈りが始まるとき」。
~人はなぜ祈るのでしょうか あなたは祈りを知っていますか~
特定の宗教を持っていなくても、人には本能的に祈るという
性質があるのではないでしょうか。祈るというよりは、期待を
込めて願う、望むという漠然とした、あるいは無意識の行為と
言えるかもしれませんが、それはなぜなのでしょう。
“テツandトモ”風に言うなら、「何でだろう~??」
牧師さんが的を突いた例えを話してくれました。
「宛名を書かないで、手紙をポストに入れても届きません」
この例えは祈りの本質をよく言い表していると思います。
便箋にたくさんの願いことを書いて封筒に入れても、宛先不明
なら届くはずがありません。漠然とした対象に、ただ必死に
思いを訴える一方通行的な祈りは、虚しさだけが残ります。
余談ですが、高校生の頃、部活日誌の端っこに「「神さま、
仏さま、加山雄三さま‥、どうか願いを叶えてください」などの
落書きが書いてありました。当時、若大将が大人気でした(^_^;)
「念ずれば通ず」ですか。乙女心の切なさは伝わってきますが。
一方、聖書における祈りは、人と神、双方向の祈りです。
神様がどのような方であるかを知っているから、全幅の信頼を
もって心の細部まで注ぎ出すことができます。神様もまた人の
祈りに耳を傾け応答してくださいます。
神様のかたち(像:イメージ)にデザインされ、その鼻に神様の
息(霊)を吹き込まれた人間は、神様と交わる特権が与えられた
と創世記に書いてあります。だから双方向の祈りができる。
すばらしい恩寵です。
誰に教えられたわけでもないのに、私たちには咄嗟に嘘をつい
たり、言い訳したり、誰かのせいにしたりする弱さを持っていま
す。一点の濁りもない清廉潔白な人など一人もいないでしょう。
聖書はその弱い性質を原罪と言っています。その原罪を認める時、
私たちは初めて神様に祈ることを始める―。
「そのころ、人々は主の名を呼ぶことを始めた。」
創世記4章26節
人はなぜ祈るのか? あなたは祈りを知っているか?
クリスチャン歴23年。初心に返り、この問いに向き合いたいと
思います。