シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

自分色に染め上げる

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台風の余波で風雨が強まる朝、完全防備の構えで教会へ。
一日早い敬老礼拝に出席してきました。


初めて教会の門をくぐったのは30代半ばのこと。
綾小路きみまろさんではありませんが、「あれから30年!」の
歳月が流れ、まさに光陰矢の如しです。
なのに、いまだ薄っぺらなクリスチャンの私 (ノд-)クスン


今日の礼拝メッセージ、自分に向けて語られているようで、心に
沁みました。老いは逃れられない人間の定めです。だからこそ、
Active Agingということを意識して生きることが大切なのであると。


Active  Agingとは安全に、健康的に、社会参加をしながら
活動的に年を重ねる生き方なのだそうです。ここ数年、終活とか
エンディング・ノートなどの言葉がブームになっています。
A.デーケン氏や日野原重明氏が提唱してこられた「死への備え」が、
万人の心に根ざし、Active  Agingという流れに繋がって
いるのかもしれません。


あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。
わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う
年月が近づく前に。
太陽と光、月と星が暗くなり、雨の後にまた雨雲がおおう前に。
その日には、家を守る者は震え、力のある男たちは身をかがめ、
粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ、からながめている
女の目は暗くなる。通りのは閉ざされ、臼をひく音も低くなり、
人は鳥の声に起き上がり、歌を歌う娘たちはみなうなだれる。
彼らはまた高い所を恐れ、でおびえる。アーモンドの花は咲き、
いなごはのろのろ歩き、ふうちょうぼくは花を開く。
だが、人は永遠の家へと歩いて行き、嘆く者たちが通りを歩き回る。
こうしてついに、銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、
水がめはのかたわらで砕かれ、滑車が井戸のそばでこわされる。
ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。
              (伝道者の書 121-7節)


この旧約聖書の箇所は、一見、美しい詩的表現に見えますが、
象徴的解釈が難しいですね。これは“老人あるある”を、
畳みかけるように描写しています。辛辣だけれども、どこか共感を
呼ぶ親近感を持った言い回し。クスっと笑みが浮かぶような、
聖書の面白さが味わえる箇所かもしれません。


たとえば、「粉ひき女たちは少なくなって仕事をやめ」とは、
歯がなくなって咀嚼しにくくなるさま。心の窓と言われる目は
かすみ、扉は閉じて音が聞こえなくなり、鳥には起こされ
早起きになる。高い所が恐くなり、道ではつまずきやすくなる。
髪はアーモンドの花のような白髪になり、歩みはのろくなる‥。
天井からつるされた照明用の銀のひもが切れ、油の受け皿である
金の器が打ち砕かれ、賑わっていた水汲み場も、もはや枯れ井戸に
なってしまった。


一巻の終わり―― こうして人は死を迎えるわけですが、
ここからが今日の礼拝説教のメインテーマ。


「だが、人は永遠の家へと歩いて行き、…」


エス様は、信じる者へ向けて言われました。
「あなたがたへの住まいを用意している」と。これは約束です。


今夏、兄が天に召され、先日四十九日法要を終えたばかりです。


仏教ではこのように、一周忌、三回忌、七回忌‥と追善供養を
行いますが、死者の魂の行方は、本当のところ分かりません。
“帰る家”があることの素晴らしさ、恵みを思います。


必ず来る死を受け入れ、向き合うその中で、いかに自分色に
染め上げることができるか。今日のメッセージから、大きな
チャレンジをいただいた気がします。

※初心に返り、リンゴを染め上げて見ました(^^;)