「清い心」
清い心というのは、心にゆがみも曇りもまったくない
状態を言うのではないでしょう。
自分の心のきたなさに立ち止まり、
それをかたづけないことには一歩も前へ進めない人、
つまり自分を素通りできない人の心でしょう。
それは自分自身が何よりも問題になるのですから、
内気な、恥じらいを含んだ、
申しわけなさそうな心でしょう。
それはまた、自分の心の自叙伝を
一つ一つ記しておかないことには不安でどう生きたらよいのか
分からなくなってしまう人の心でもありましょう。
だからおそらく、
心の清い人はゆっくり生きると思います。
藤木 正三『 灰色の断想 』より
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神学者の藤木正三さんの著書を愛読しています。
愛読というより、いつも手元に置いて日々の指針としています。
S I Nという単語は、SとNという対極にあるものの間に、I がどっかり居座っている‥
I=私。 私が中心=自己中心。 自己中心=罪。
どんなに心を清く保とうと思っても、この自己中心という厄介な思いがある限り
心のコップの水は100%は透明にはなりません。
でも水の汚れに気をつけながら、なんとか濾過したいと腐心することは、
とても大事なことのように思います。
「清い人」にはなれませんが「清くなりたい人」でありたいものです。
石橋を叩いても、なかなか渡らない優柔不断な人。
ちょっとした石ころも素通りできない人。
はたからはドンキーステップのように見えますが、そのゆっくりしたペースの
中で見つける真理が、きっとあるのではないかと思います。