シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

赦し合うということ

 

三十代の頃、教会の大先輩から一つの戒めとして教えられ、
それ以来ずっと肝に銘じている言葉があります。
 
朝令暮改”(ちょうれいぼかい)
 
あまり聞き慣れない言葉ですが、注意していると死語というわけでも
ありません。最近で言えば7月半ば頃でしたか、オリンピックの
メイン会場となる新国立競技場の建設計画が白紙決定になった時、
舛添都知事が言ったのがこの言葉でした。
「こんな朝令暮改、やるなと言いたい!」と。
 
その意味は「朝決めたことを、夕方には変えてしまうこと」
「方針などが絶えず変わって定まらないこと」
「あてにならないこと」
 
「信仰者とは状況に左右され、コロコロと生き方を変え、行く道を
変えるような者であってはならない。人から信頼される力を身に
つけなさい」と、その大先輩は教えてくださったのでした。
逐一ごもっとも、感服の至りと今も大切に心に刻んでいます。
 
そういった信条的なものもあって、私は平気で朝令暮改をする人が
苦手です。悪気はないのでしょう。でも約束事を二転三転し、結局
キャンセルする。相手にとって大事な時間の浪費ということに思いが
至らない無神経さにムム‥と思ってしまいます。
 
その時、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して
罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか。」
エスは言われた。「七度までなどとは、わたしは言いません。七度を
七十倍するまでと言います。」 マタイの福音書1821-22節)
 
ペテロが七度までと言ったのは、この時代の律法学者がそのような
教えをしていたのかもしれません。でもイエスは「七度を七十倍する
まで」と言われました。キリスト教で七は完全数と言われています。
だから、終わりなく、永遠にというユダヤ人にとっては無限の赦しを
示す数字なのでしょう。
 
感情にとらわれ過ぎると相手の非ばかりが浮き彫りにされます。
でもそういう自分はどうか? 朝令暮改をしないことを信条として
いると言っても、果たして100%守れているだろうか? 我が身を
省みる時に、自分は完璧と言い切れる人はゼロだと思います。
気づかぬうちに、どれだけ罪作りなことをしているでしょうか。
当然、自分も赦されなければならない罪人なのです。
 
「神がキリストにおいてあなたがたを赦してくださったように、
互いに赦し合いなさい。」 (エペソ人への手紙 432節)
 
このイエスの言葉には、あなたも神様に罪赦されたのだから相手を赦し、
平常心で接しなさいというだけの消極的なものではなく、さらに一歩
進んだ命令が込められているように思えました。
「へりくだって、自分の罪が赦されたことを感謝しなさい。相手を思い、
積極的な愛の行動を起こしなさい。もっと知恵を働かせなさい」と、
静かに諭されるイエスの声を聞いた気がします。

 
人間関係が少しでもほころびかけた時、このイエスの言葉に心を
留めたいと思います