シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

陶芸体験を通して


  
   見よ。粘土が陶器師の手の中にあるように、
       ‥ あなたがたも、わたしの手の中にある。
                    エレミヤ書 18章6節-

7月の終わりに陶芸体験教室に参加してきました。
去年に続き二度目のチャレンジです。

若い頃から器が好きで、よくデパートの食器売場をウロウロ。
昔は華やかな洋食器が好きでしたが、今はしっとりと重厚な質感が
ある和食器に心惹かれます。高価で手が出ない分、自分で器が
作れたらいいなと思い続けてきました。今、遅きに失する年頃になり、
ようやくスイッチON!スロースターターもいいところです。

絵付け体験では、使用した染色ペンが思い通りに滑らず、仕上がりも
実際のペンの色よりずっと薄い色味になりました。でも透明感ある
出来栄えに満足しています。
 
旧約聖書の中には、神様を陶器師に、人間を粘土(あるいは器)に
例えている箇所が多くあります。どんな粘土を選ぶか、どんな形に
するか、器は陶器師の意のままに作られます。肌理(きめ)を細かく
するのも荒くするのも、こね方は陶器師の手加減次第。ちょうどよく
練られた粘土はロクロに乗せられ、バランスよく形が整えられ、
最後に窯に入れられます。粘土は火を通して陶器となります。
 
神様も、それは丁寧に、緻密に、完成品として私たち人間を作られ
ました。ところが、そんな完成品であるはずの私たちが「神などいない」
とか「望んで生まれてきたわけではない」「生きる意味が分からない」
とかつぶやくようになり、器はどんどん不純物を吸い込み、劣化して
しまいました。ここまで来ると、器が失敗作だと分かり、それを地面に
打ちつける陶芸家。テレビドラマのワンシーンが思い浮かびます。

テレビの陶芸家はさておき、神様ならどうするでしょう? 
懇親の愛をこめた最高傑作であるはずなのに、自分中心な背信行為を
繰り返す人間。神様と言えど、怒り心頭に発する思いはきっとあるに
違いありません。

でも、そんな救い難い人間を神様は憐れんで、“欠けのあるままの器”
として大切に扱ってくださいます。神様の寛容と忍耐に感じ入ります。

私たちはどうすればよいのでしょう?
無知の知」という哲学用語がありますが、まずは自分の足りなさ、弱さ、
愚かさを知り、認めることかもしれません。自分の非を認めることや
それを告白して悔い改めることは大きな心の痛みを伴うことです。
でも粘土が最後に火で焼かれて完成するように、私たちも仕上げの
“火”を通って初めて神の完成品として焼成されるのではないでしょうか。

また陶芸をする機会があれば、神様のプロセスに重ねて創作して
みたいと思います。

追記
一緒に陶芸体験教室に参加した孫の作品(藍色のほう)です。
自由な発想で作るので、迷いがなく堂々としています。