シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

貧者の一灯ではないけれど

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私が集う教会では、毎年、春に宣教バザーを催します。
もともとドイツの宣教団によって開拓され、多くの宣教師の
血と汗の結晶によって建て上げられた教会です。
そういう感謝すべき背景もあり、次は自分たちが、国内外で
協力を必要としている教会のために、少しでも力になりたいと、
祈りをもって取り組んでいるわけです。

アフリカ・ケニアのスラム地域で幼稚園を経営する宣教師夫妻。
3.11後、被災地気仙沼に居を移し、仮設住宅訪問、移動カフェ
などボランティアで地元民と交流するドイツ人宣教師夫妻。
東京の教会から働き場所を被災地釜石に移し、三陸に新しい
教会を建てようとしている牧師夫妻。(もうすぐ開所式)

バザーの収益金はそんなに多くはないけれど、真実の愛を
届ける働きのために、有意義に用いられますように。。。

聖書の中に、こんな場面があります。

エスエルサレム神殿で、貧しい一人の寡婦(やもめ)が
レプタ銅貨2枚を献金箱に入れたのをご覧になり、この人は
誰よりもたくさんの献金をしたと高く評価されました。

レプタは当時のお金の最小単位で、10円とか20円くらい
だったのかもしれません。それでも1枚残せば、何か食べ物の
一個くらいは買えたかもしれないのに、彼女は持っている
2枚全部をささげました。ここが大事なところなんですね。
いくら献金したかではなく、財布にいくら残ったか。
捧げるという行為が、財布の残りを気にしながらのものか
どうか、エス様はその心の中を見られるのでしょう。

確かにバザーに献品する時、品定めをしてしまう私。
そして使えそうなものは残し、不要の物を出すという(-_-;)
いちばん良い物、最高の物を差し出すことは、思ったより
難しいことなのかもしれません。貧者の一灯ではないけれど、
レプタ銅貨の寡婦に習うものになりたいものです。

   「神は喜んで与える人を愛してくださいます。」
       
         コリント人への手紙 第二 9章 7節

※写真は古里・気仙沼(唐桑)の海。