シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

忘れ得ぬ悪夢、ふたたび

 
 
 
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ブログの更新が途絶えてから長い時間が経ちました。
今日こそはと思い立ちパソコンに向かっても、キーボードを
打つ手がなかなか進みません。あふれるほど書く材料はあるのに‥。
混沌とした心の中を整理するには、体験してきた数々の出来事と
向き合わなければならず、そのために必要な力が湧いてきません
でした。
 
 
3月11日午後2時46分、私は仙台から川崎の自宅へ戻る途中の
新幹線トンネル内(福島―郡山間)で東日本大震災に遭遇しました。
22時間後、これは私のイメージですが、まるで旧約聖書
出エジプトを決行するユダヤの民のごとく、トンネルからの大脱出。
16両編成の電車だったので、1100人としても、乗員乗客合わせて
16001700人の大移動は、客観的に見れば壮観な眺めだったに違い
ありません。梯子を使い、一人ずつ電車から地面に降りるだけでも
優に2時間以上を要しました。
 
その後、バス25台(上り・下り)に乗り込み、それぞれの避難所へ
移動。私は前日に別れてきたばかりの夫の母が心配だったので、
下りバスを希望。ひとまず近くの避難所、福島県明成高校体育館に
連れて行かれました。約3時間をそこで過ごしましたが、幸いなことに
タクシーの相乗りを探していた会社員に声をかけられ、その日の内に
無事仙台へ引き返すことができました。
 
停電でエレベーターが使えず、急ぎ階段で母の住む8階へ駆け上り
ました。すれ違う人もなくマンション内には人の気配がありません。
後で知ったのですが、地震後、ほとんどの住人が避難所へ待避して
いたとのこと。蝋燭もなく今にも消えそうな懐中電灯を手にうずく
まっていた母を発見した時は、引き返して本当に良かったと思い
ました。ガスも電気も水もない、ないないづくしの状況の中で、
避難所で配られた水やおにぎり、パンを母と分け合った夜のことは
生涯忘れられないでしょう。
 
時間と共に過去に類を見ない災害が、郷土である三陸沿岸を襲った
ことを知り言葉を失いました。幸い気仙沼に住む姉の安否は早い
時期に伝えられ、三日後に無事救出されました。姉や親類は津波
家を失ってしまいましたが、命が助かっただけで十分。感謝しても
しきれないほどです。
 
1960年にも気仙沼市チリ地震津波で被災しています。
だから地震津波という認識が浸透している所でもあります。
姉も一瞬、ハンドバッグだけでも取りに戻ろうかと迷ったけれど、
津波の危険を察知して逃げることを優先したのだそうです。判断が
数分遅かったらと思うと‥想像するだけでもゾッとします。
 
私が10歳の時に見た大津波は5、6メートルくらいあったでしょうか。
避難した山の上から見た津波は、真っ黒い大蛇が町をめがけて
進入して来るように見えました。しかし今度の津波はそれをはるかに
上回る十数メートルと報道されています。映像で見ると大蛇などでは
ない、荒れ狂う瀑布という表現がピッタリかもしれません。
 
子供の頃に見た大津波の光景は、大人になった今も時折、悪夢の
ようにフラッシュバックし、記憶から消え去ることがありません。
その悪夢が再び、現実のものとして目に飛び込んでくるとは‥。
叶うことなら、この未曾有の災害が、それを目撃した人々の
トラウマにならないようにと祈るばかりです。