シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

「鹿鳴館の貴婦人」-大山捨松-

   

 

 再燃した読書熱が続いています。専業主婦とは言うものの、

ほどほどの手抜きしか許されぬ雑用処理係。長編ともなると、

なかなか先へ読み進めません。ようやく一冊、鹿鳴館の貴婦人」

-大山捨松-(中央公論社刊)を読み終えました。

 

 明治4年、国費留学生として岩倉使節団と共にアメリカに渡った

日本人初の女子留学生の一人、大山捨松の生涯をたどる実録とも

言える本。曾孫にあたる久野明子さんの綿密な取材による、膨大な

資料を元に編集されたもので、多くのエピソードから捨松の魅力的な

実像が浮かび上がって来ます。

 

 その時の女子留学生は5人。6歳から14歳という、まだ年端も

行かない少女たちが親元を離れ見知らぬ国へ旅立つのですから、

なかなか厳しい状況であったと思います。最年少の6歳は、あの

5000円札の津田梅子でした。捨松は11歳。同志2人は帰国後も

協力し合い、日本女性の教育や地位向上に貢献することになります。

 

 ところで捨松(すてまつ)とはいかにも妙な名前ですが、渡米を前に

母親が「捨てたつもりで待つ」という意味を込めて、本名「さき」を

改名したとのこと。娘を異国に送る母のやるせない決意が伺えます。

 

 アメリカの大学を卒業して帰国すると、日本にはまだ女性が力を

発揮する場所がなく、大きなカルチャーショックを受けます。同じ思いを

抱く津田梅子が後に女子英学塾(後の津田塾大学)を設立した時には

積極的に支援し、先進的な女子教育を目指し尽力するのでした。

 

 会津出身の捨松は大山巌と結婚しますが、彼は薩摩の出身。西郷

隆盛の従兄弟でもあり、戊辰戦争では敵味方の間柄だったため、

結婚に反対する向きもありましたが、志の部分で惹かれ合うものが

あったのでしょうか。前妻の3人の遺児と実子3人の子どもの良き

母親として家庭も大事にしています。

 

 当時、貴族や政府高官の社交の場として鹿鳴館がありましたが、

捨松は流暢な英語による接客、社交ダンスで人々を魅了し「鹿鳴館

花」と呼ばれるようになりました。日本で初めてバザーを催し、大成功を

おさめたのも捨松のアイディアでした。

 

 女性ひとりでは何もできない明治という時代に、徐々に近代化し、

浸透していく過渡期の文化の様子が克明に描かれ、とても興味深い

内容が盛り込まれた良書でした。 ただ長いので、時間のある方に限り、

ぜひご一読を。

 

*** 今日のひと言 ***

 

 人生は自分の色で

 どんな色にも塗り変えられる。

             (沢田 美喜)

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