
絵を習い始めた頃、先生に勧められアメリカン・リアリズムの代表的な
画家、アンドリュー・ワイエス展を見に行ったことがありました。出会いとは
こういうことを指すのでしょう。画家の目に映る日常の一瞬をとらえた、
静止画とも言うべきワイエスの作品群にすっかり魅了され、帰りに売店で
何枚も絵はがきを買い求めたのを思い出します。
アンドリュー・ワイエスは病弱だったこともあり、故郷フィラデルフィア
での日常を素材に身近な人物や風景、家屋、農具などをモチーフに多くの
絵を描いています。中でも代表作「クリスティーナの世界」は教科書にも載る
有名な作品で、一度は見たことがあるという人も多いでしょう。

ほとんど戸外へ出ないワイエスにとって、モデルとなる人物は限られて
いました。クリスティーナは筋肉系の疾患を持つ近所の女性で、両腕の力
だけで這って移動していました。懸命に丘の上に建つ自宅を目指す姿に、
ワイエスは「肉体的には制限されているが、精神的には決して制限されて
いない」と、クリスティーナに対する深い敬意と賛辞を言い表しています。
後に、ヘルガという女性をモデルにしたシリーズが発表されますが、その
エピソードが何とも謎めいているのです。ヘルガはワイエスの隣家にホーム
ヘルパーとして来ていた既婚の女性でしたが、周囲の誰にも知られずに
ワイエスのモデルを務めていたのでした。それも15年もの長きにわたって。
描いた作品も240展余りというからビックリです。
ワイエスの妻ベッツイやヘルガの家族にも知られず、秘密裏のうちに
制作活動が行われていたという事実。これには驚きを隠せませんが、まさに
“事実は小説より奇なり”は、現実に存在するということなのですね。でも、
芸術の世界は、謎は謎のままであって良いのかもしれません。 むしろ、
よりミステリアスな価値が深まるのではないか。そんな気がしてきます。
上の絵は、昔、ワイエスの画風をちょっとだけ意識して描いた「納屋」と
いう作品です。地味で見栄えのしない絵ではありますが、自分が描いた絵の
中では好きな1枚です。


(アンドリュー・ワイエス作品集から)
最近は、すっかり絵を描くことから遠のいてしまいましたが、ワイエスの
画集を眺めていたら、また静かな空気感が漂う日常の一コマを描いて
みようかなと、そんな衝動もうっすら湧いて来た夏の日の午後でした。