12歳の板前さん(孫)が上手に捌きました。
一度聴くと、ずーっと耳に残る歌詞とメロディってありますよね。
今月、教会で歌っている賛美歌もそんな一曲です。
どんな曲か、まずは動画でどうぞ… ⇩
https://www.youtube.com/watch?v=F_dhspxG858
教会福音賛美歌265番「主の食卓を囲み」という賛美歌です。
「マラナ・タ」とはアラム語で「主よ、来てください」の意味。
「マラナ・タ~、マラナ・タ~」 リフレインが止まりません(^o^;)
1番 主の食卓を囲み、いのちのパンをいただき、
救いの さかずきを飲み、主にあってわれらはひとつ。
マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国がきますように。
マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国がきますように。
仕事や付き合い上の会食は別として、共に食事をするというのは、
親密さの度合いを表すものだと思っています。食卓を囲むということは、
大切な家族や友人知人と、大切な時間を共にすることであって、それは
単に飢えや渇きを満たすだけの場所ではありません。ご馳走が体の栄養に
なるのと同様に、お互いが心の栄養となる場所だと思うからです。
『今日のパン、明日の糧』(H.ナウエン著/聖公会出版)の中の一節。
とても興味深く、頷けるところがあるので記しておきます。
食卓は、人々が、共にいてくつろげる場所ですが、よそよそしさや、
敵意や、憎しみすら感じる場となりやすいこともまた、誰もが
よく知っていることです。人々が親しくくつろぐためにある
という、まさにその理由のために、食卓は、そこにくつろぎが
欠けていることを経験する場所ともなりやすいのです。食卓は
また、私たちの内にある緊張を明らかにします。夫婦が互いに
口を開こうともしない時、また子どもが食事をしようとしない時、
兄弟姉妹が口げんかをする時、重苦しい沈黙が覆う時、食卓は
地獄となり、一番近づきたくない場所となってしまいます。食卓は、
家族生活の、またコミュニティーとしての生活のバロメーターです。
食卓が、共にいてくつろげることを喜べる場所となるように、
出来るだけのことをしようではありませんか。
くつろぎのためにある食卓。視点を変えれば、くつろぎの欠如。
それを埋めるためにある食卓。この構図、なかなか意味深ですね。
マラナ・タの歌詞のように、そこに主が来られる時、食卓は
ひとつの心になれるのでしょう。共にくつろげる食卓になるよう、
ベストを尽くしたいものです。