ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
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三年ほど前、親しくしているドイツ人女性宣教師が休暇で帰国される際に、
和食のレストランで送別の食事会を持つ機会がありました。
その日の参加メンバーは宣教師、友達、私の三人。
奇しくも、そろって同い年ということもあり、習慣や文化の違いを超える
どこか共通の思いが交叉して、楽しいひとときを過ごすことができました。
その時、宣教師さんが一つの詩と、それにまつわるエピソードを語ってくれたの
ですが、とても印象的な内容だったので、今もよく覚えています。
宣教師さんの知人が空き巣に入られました。お金になりそうなカード類を中心に
物品が盗まれていたそうです。ふと見ると、一枚のテレフォン・カードだけが
残されています。テレフォン・カードには、「あしあと」という題の詩が書いて
ありました。
なぜ、このカードだけを残したのか、その理由は分かりませんが、盗みを働くと
いう切迫した心理状況の中で、とっさにカードに書いてあった詩が目に入り、
瞬間的に良心の咎めを促す何かが働いたのでしょうと、知人は言っていたそうです。
「たしかに力ある‘ことば’は、人の心を揺さぶります。神様が、その空き巣の心の
すき間に、一瞬、介入されたのかもしれません。その人の心が神様のことばによって
変えられますように。」
宣教師さんの‘ことば’と祈りにも、私たちは大きく心を動かされました。
あらためて「あしあと」を読むと、再び大きな感動がよみがえります。