シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

信仰は心の自律神経 

 2月末、ちょっと体調を崩していました。若い頃からの持病のような

ものですが、寒暖差の大きい季節に自律神経のバランスを崩すようです。

自律神経には二種類あって、交感神経と副交感神経で構成されていますね。

 よく交感神経はアクセル、副交感神経はブレーキに例えられます。

どちらかが優位に働くと体に不調をきたします。意識していないのですが、

私の場合、唐突にアクセル全開になることがあるようで、脈が早くなって

立ち上がるだけでも疲れてしまうとか(~_~;) 自分の体のことは、よくよく

承知しているので、サインが出たらすぐ手を休め、静かに過ごすことに

しています。

 

 自律神経は一日中、一秒たりとも休まずスイッチオンの状態で、私たちの

体調維持のために目を光らせ、時に警鐘を鳴らしてくれる大切な役目を

果たしてくれています。そうそう、ルカの福音書にこんな記述があります。

自律神経の話につながるかもしれません。

 

 あなたの信仰が あなたを救ったのです。(ルカの福音書17章19節)

 

 他の人と一定の距離を取らなければならなかった、重い皮膚病患者が

10人いました。彼らはイエスさまに「どうか私たちを憐れんでください」

と懇願します。イエスさまの「その体を祭司に見せなさい」ということばに

従い、祭司の所へ行く途中に、なんと彼らの皮膚病は癒やされました。

10人のうち、たった一人だけがイエスさまの所に戻りひれ伏して、感謝の

ことばを捧げました。その人はユダヤ人から蔑まれ、差別されていた

サマリヤ人でした。他の9人はどこへ行ってしまったのでしょうか。

 「あなたの信仰が あなたを救ったのです」というイエスさまのことばは、

「信仰には体の病だけでなく、心の傷も癒やす力がある」ことを教えて

くれます。

 

 見よ イスラエルを守る方は

 まどろむこともなく 眠ることもない。  (詩篇121篇4節)

 

 主は すべてのわざわいからあなたを守り

 あなたのたましいを守られる

 主はあなたを 行くにも帰るにも

 今よりとこしえまでも守られる   (詩篇121篇7-8節)

 

 自律神経が休まず働いているように、神さまも絶えず私たちを見守って

いてくださいます。信仰はまさに心の自律神経なのかもしれませんね。

 

※写真は紙工作のyoutubeを見て、桜のオブジェを作ってみました。

 ピンクと水色のバランスが春らしさを演出してくれています(*^^)v

No Rain, No Rainbow. 

 

 


 今はほとんどアップデートを果たせていない、不真面目な管理人では

ありますが、あるSNSで「ことばの宝石箱」というコミュニティを運営

しています。日々の暮らしの中で、心に響いたことばを多くの人と分かち

合いたい。そんな思いで立ち上げたコミュニティです。

 皆さんがここに寄せてくださった一つひとつのことばには、力があり、

心の拠り所になっています。どれも珠玉の名言ばかりですが、その中でも

私が特に素敵だなと思ったのが、このフレーズです。

 

 No Rain, No Rainbow. 

 

 ハワイのことわざで、直訳すると「雨が降らなければ、虹は出ない」。

 

「雨が降ったおかげで、きれいな虹が見られる」

「つらいことがあっても、きっと未来には良いことが待っているはず」

「苦は楽の種」 

そんな希望の種が秘められたメッセージが伝わってきます。

 

 聖書において、「虹」は平和のしるしを表します。神さまは罪に満ちた

人間の世界を一度リセットしようと、大洪水を起こされました。有名な

ノアの洪水の話です。神さまのことば通りに方舟(はこぶね)を作り、

いのちを得たノアが見たのは、空に架かった美しい虹でした。それは、

「もう二度と洪水を起こし、人間を滅ぼさない」という神さまの約束の

しるしでもありました。

 

 「わたしは雲の中に虹を立てる」(創世記9章13節)

 

 Rainbowのbowは「弓」という意味です。戦いの武器ともなる弓が

雲の中に置かれる。それは平和であることのしるしにもなります。

 今、土砂降りのような困難な状況のただ中にあっても、雨が止めば、

きっと澄んだ青空に虹が出ることを、私たちは知っています。だから、

思い煩うことをやめ、神さまの約束のしるしである虹を待ちたいと

思います。たった1行だけ。短いフレーズですが、このダイナミックな

ことばを、心の救急箱に入れておこうと思います。

 

※写真2枚:

 しばらく雨が続いていた川崎でしたが、今日は青空が広がりました。

虹は出ませんでしたが、木瓜の花がほころび、ネモフィラも我も我もと、

顔をのぞかせています。いよいよ、春近しの良い季節になりましたね。

 

 

するとそのとき、主が通り過ぎた。(列王記 上)

 新年おめでとうございます。今年も緩やかなペースではありますが、

枠にとらわれず、心に浮かぶあれこれを綴っていきたいと思いますので、

昨年同様よろしくお願い申し上げます。

 

 誰もが新しい年への希望を胸に迎えたであろう2024年の初日。

最大震度7を記録する大地震能登半島を襲いました。13年前、東日本

大震災に遭遇し、困難を極める日々を体験した者として、胸がつまる思いで

います。何より1月の寒さはいっそう恐怖、不安を増大させることでしょう。

まだ救援の手が行き届いていない被災者の方々に、一刻も早く、必要な

助けが与えられますように。心からお祈りいたします。

 

 天災、人災、そして戦闘…。 理不尽と思えることが起こると、多くの人は

「神が本当にいるなら、なぜ?」という疑問を持つと思います。クリスチャン

であっても、「神さま、なぜですか?」と呟いてしまうことが多々あります。

 

 旧約聖書の列王記という書物にエリヤという預言者のことが書かれて

います。心血を注ぎ預言者としての責務を果たしてきたのに、イスラエル

王に命を追われる身となり、すっかり気落ちして、「主よ、もう十分です。

私のいのちを取ってください。」と半ば自暴自棄になっていた、その時の

様子が聖書に描かれています。

 

 主は言われた。「外に出て、山の上で主の前に立て。」

するとそのとき、主が通り過ぎた。主の前で激しい大風が山々を裂き、

岩々を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震

起こったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、 

火の中にも主はおられなかった。しかし、火の後に、かすかな細い声があった。

                 第一列王記19章11-12節

 

 信じている神さまに見放されているのでは…。そんな絶望が頭をよぎる時、

実は神さまは、共にその場所におられたことが分かります。しかもエリヤの

すぐそば近くに。風の中にも、地震の中にも、火の中にも神さまの姿を

確認することはできなかったけれど、エリヤは自分の横を通り過ぎる時の

気配、かすかに聞こえる声を、確かに感じ取ることができました。

 

 神さまは信じる者を決して見放したりはなさいません。私も被災した

直後の頃はエリヤのように諦めが先行し、心の芯棒が折れそうになりました。

でも神さまに祈りを捧げている時に、不思議なことに心の奥底から神さまの

声が浮かんできたのです(実際に聞こえたわけではありません)。

 「恐れなくていい。これからがわたしの出番だから」と。

たぶん、礼拝説教で聞いた言葉が、心の中に刻まれていたのでしょう。

 

 極限状況のただ中に、神さまは確かに臨在されます。そして「恐れるな。

わたしはあなたと共にいる」と励ましてくださるのです。そんな話は信心が

なければ通用しないと人は言うでしょう。それは、その通りかもしれません。

それでも、艱難辛苦にある今の時だからこそ伝えたいのです。苦しむ人の

傍らで、「立ちなさい」と語りかけられる神さまがいることを。

 

 まだ被害の全容が明らかではありませんが、どうか神さまが、被災者

お一人お一人の上に、慰めと励ましを、そして立ちあがり一歩を踏み出す

勇気と助けを与えてくださいますように。 心よりお祈りいたします。

晩節を 輝いて生きるために

 タイトルに“晩節”と書いて、我ながら苦笑してしまいました。

金婚式も迎えたし、正直、残り人生のカウントダウンは始まって

いるので、晩節に違いはないのですが…(~_~;)

 

 文字がぼやけたり、二重に見えたりと目に違和感を持つように

なってから読書量が減っていた昨今ですが、最近、ブックオフ

立ち寄った時、面白そうな本を見つけたので4冊ほどの衝動買いを。

 

 その中の一冊、コラムニスト 中野翠さんの『いくつになっても』

(副題:トシヨリ生活の愉しみ)は、今の私の境地そのままの

エッセイ集でした。ページを繰るごとに「本当にそう!」「あるある!」

「なるほど!」「やっぱりね~!」と、頷いたり、苦笑したり。

 

 エピローグ前のエッセイのタイトルは「老い」。独特な言い回しで

生と死を捉えているのが面白かったので、一部紹介したいと思います。

  

  こんなに面白く味わい深い「この世」というもの―。それなのに、

 いつか私も姿を消すんだなあ、フェイドアウトするんだなあ、「無」と

 いうことになるんだなあ。

  それは今のところ恐怖だけれど、それでもわずかに救いはある。

 多くの場合、人は自分の死を実感できない。生まれた時に「今、私は

 生まれた」という意識が無いのと同様、死んだ時も「今、私は死んだ」

 と、死を実感することはできない。それは、ささやかな救いという

 ことにならないか? 人生の最初と最後は無意識なんですね。

  とりあえず、生きているのだから、ありがたく思って生きて行こう。

 できるだけ面白く楽しく。心の中の青空を探しに行こう。…

    中野 翠著『いくつになっても』より引用(出版:㈱文藝春秋

 

 人間は、生まれた・死んだという実感がない。最初と最後が無意識

というのは、確かに、そうなのかもしれませんね。 それが救いになるか

どうかは、人それぞれの考え方としても…。

 

 「太陽と死は直視できない」という、ロシュフーコーの有名な言葉が

あります。確かに太陽は絶対に直視できません。死は、誰でもじっと

見つめることを避けたいものです。ただ100%、死に直面するのも人間の

現実です。もし死に向き合うことに冷静でいられるとすれば、死の向こう

側にある未知の世界に希望が見えること。そうは言えないでしょうか。

 肉体はいつか必ず朽ちます。ただ、イエスさまが死に打ち勝って、

よみがえってくださったこと、イエス様の復活を信じるクリスチャンが

永遠に続くいのちを戴けること。そして、イエスさまが天国に場所を

用意して迎えに来てくださること。それを信じるが故のクリスチャンの

幸いに、感謝するばかりです。

 

 あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを

信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんあります。

そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、

と言ったでしょうか。わたしが行って、あなたがたに場所を用意したら、

また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。

わたしがいるところに、あなたがたもいるようにするためです。

             (ヨハネ福音書13章1-3節)

 

ポプリが香る金婚式の宴(うたげ)

 

 

10月20日、結婚50周年を迎えました。

 

「人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり」

 ~悠久の時の流れに比べたら、50年はあっという間である。~

 

織田信長が好んだ言葉だそうですが、そうは言うものの50年の

歳月は決して短くはありません。譲り合い、支え合い、許し合い、

互いに敬い、感謝して受け入れ合うのが夫婦であるとすれば、私たち

夫婦は100点満点のうちの何点? 50年の間には色々な障壁も衝突も

あったし、せいぜい60点か70点?まあまあ、そんなところでしょうね。

 

 聖書の創世記に結婚についての、こんな記述があります。

 

  ‥それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、

   ふたりは一体となるのである。  (創世記2章24節)

 

 父母を離れ‥は重要なキーワードです。男は結婚と同時に、両親の

もとから精神的にも独立しなければなりません。結婚生活を送る上で、

最も難しいのは、マザコンが絡む母と息子の関係とも言われます。

聖書は、最も大事にすべきなのは夫婦関係であると教えています。

親や子への深い愛情は言うまでもありませんが、夫婦間には肉親の

愛情に近い、尊い関係を築ける可能性があるというのです。つまり、

男女が長い時間をかけて心が一つになること。これが結婚の真髄と

言えるのでしょう。

 

 金婚式とは「金色の輝きを得た豊かさ」という意味を込めて呼ばれる

ようになったそうですが、いえいえ、現実はそんな輝きとは程遠いもの。

豊かさより欠けのほうが多いかもしれません。 でも、お互いが健康で

50年の節目を迎えられたことは、当然なことではないという意味で、

感謝すべき記念日に違いはありません。

 

 

 


 息子たちがお祝いの宴(うたげ)と記念品を用意してくれました。

これからも二人仲良くといういう意味で、九谷焼のペアマグカップと、

ポプリのブーケです。

 因みに、ポプリの語源はフランス語で「ごった煮料理」を意味した

pot pourri。 直訳は「腐った鍋」になるそうな。 え~、なんですかそれ? 

ちょっと、この直訳は引いてしまいますよね~(~_~;) 

 

 もともとは「ごった煮」を意味する料理用語だったようですが、花、葉、

香草、香辛料、木の実、果物の皮、苔、精油などを混ぜ合わせ壺のような

容器に入れ、熟成させて作る室内香をポプリと呼ぶようになったみたい

です。腐った=熟成。と考えれば、そうなのかもしれませんが、“ポプリ”の

イメージダウンは否めないですよね(・・;)

 

 これからの一年一年も、この香りのブーケのように、調和の取れた

家庭を築いていきたいと思っています。

人生という旅に 賛美の歌を

  

 

 日曜ごとに行われる礼拝の式次第の中ほどに、聖書の「交読文」の

プログラムがあり、司会者と会衆が1節ずつ交互に聖書を読み上げます。

10月8日の礼拝では旧約聖書詩篇119篇の一部を交読しましたが、

心にグッと響く1節がありました。

 「あなたのおきては 私の旅の家で 私の歌となりました。」

                    (詩篇119篇54節)

 旅をする中で、自然に歌が湧いてくる。何気ないことのようでも

ありますが、それはなんて開放感のある素敵な瞬間なのでしょう。 

まさにこの聖句には、聖書が語る人生観が凝縮されているなぁと…。

 

 もう何年も前の話ですが、ドイツ人宣教師のH先生がゲストで礼拝に

来られた時、説教の中でとてもユニークな話をされたことがありました。

 

 「実は私はエイリアンなんです。身分証明書にも、そう書いてあります」

さらに、「エイリアンと言っても、宇宙人とか異星人ではありませんよ。

エイリアンとは寄留者とか在留外国人を指す言葉なんです。だから私は

れっきとしたエイリアンということになります」

 

 なるほど! 在留外国人の皆さんは全てエイリアンなのかと、妙に納得

したものでした。そういう意味からすると、クリスチャンもエイリアン

なのかもしれないなと思いました。宗教観やさまざまな価値観を異にする

大群衆の中で、キリスト教信仰を貫いて生きる存在なのですから。

そもそも、クリスチャンがエイリアンであるかも…という説は(?)、

旧約聖書の時代に端を発しているのかなと。

 

 今から3000年以上も前、エジプトの奴隷だったイスラエル民族は、

苦役から逃れるため、指導者モーセに率いられてエジプト脱出を決行します。

荒野での凄絶な40年の旅を強いられ、老若男女合わせて200万人とも

言われる民族が大移動するわけです。恐れと不安の只中をさすらうこの旅を

彼らは仮の宿と位置付け、どこまでも寄留者としてのアイデンティティーを

保って試練の旅を続けていたのではないかと思われます。

 

 希望のかけらも見えない過酷な旅の途上、それでも彼らの唇には歌が

あったと詩篇の作者は書いているのです。

 「あなたのおきては、私の家で私の歌となりました。」

あなたとは、神さまのこと。 おきては、神さまのことば。神さまの約束。

家とは、自分の人生、境遇を。歌は神さまへの感謝と賛美の祈りを指して

いるのでしょう。

 

 どんな辛いことが次々に押し寄せても、状況が変化しても、神さまの

ことば、約束は変わることがない。神さまへの揺るぎない信頼こそが

旅の道標、モチベーションである時、たとえ状況はどうあろうとも、

自ずと神さまへの賛美と感謝の歌が口に上って来る。

 

 苦しい時も、悲しい時も、悩んでいる時も、希望が持てない時も、

神さまの約束のことばを思い出し、苦難を賛美の歌に変えることの

できる人生の旅人、エイリアンでありたいと願っています。

ルツ記、先の見えない中での一歩から

  

 

 そもそも、聖書から学んだことをブログに書き留めてみようというのが、

ブログを始める動機でもあったわけですが、いつのまにか普通のつぶやき

ブログになっていることを反省しています(^o^;) 初心に返り、今日は

最近の礼拝説教を振り返ってみようと思います。

 

 旧約聖書に「ルツ記」という書物があるのをご存知でしょうか。

ルツとは、不運に見舞われた姑のナオミに、どこまでもついて行こうと

決意した、健気な嫁の名前です。

 ルツ記は旧約聖書士師記とサムエル記の間に挿入された、たった

4章の短い書物です。血なまぐさい戦いの続く時代の間(はざま)に、

ちょうど砂漠のオアシスのような位置づけで置かれた嫁姑の物語。

ホッと一息つける小さな休み場は、神さまの配慮なのでしょうか。

 

 ルツ記のあらすじを要約してみます。

ナオミとその夫はイスラエルベツレヘムに住んでいましたが、酷い

飢饉のためにモアブという地方に移住することになりました。ユダヤ

である彼らが、神さまの約束の地ベツレヘムを離れ、異邦の地で暮らさ

なければならないほどの大飢饉でした。

 

 ベツレヘムとはヘブル語で「パンの家」を意味します。本来なら、小麦が

豊かに実る肥沃な土地なのでしょう。 ミレーが描いた「落ち穂拾い」や

「晩鐘」がルツ記を背景にしていることからも、それが伺えます。

 

 モアブに移住したナオミに不幸が襲いかかります。まず夫が死に、続いて

二人の息子を亡くします。息子たちの妻は二人ともモアブ人でした。

先が見えない不安の中で、ナオミは「主がご自分の民を顧みて、彼らに

パンをくださった」(ルツ記1章6節)という風の便りを耳にします。

故郷の飢饉が収まり、麦の収穫ができるようになったことを知りました。

神さまの憐れみを確信したナオミは、ベツレヘムへの帰郷を決意します。

ただ、自分だけならまだしも、異邦人の嫁を連れ帰ることには大きな

不安があります。ナオミは二人の嫁に、安心して暮らせるモアブの実家へ

戻るように諭します。弟嫁は泣く泣く姑の言葉に従い別れを選択しましたが、

兄嫁のルツは、「私はどこまでもついて行きます」とナオミから離れよう

とはしません。結局、ナオミはルツを連れてベツレヘムへ戻りました。

 

 ルツはモアブでの暮らしの中で、姑の人間性に惹かれ、絶大な信頼を

寄せていたことが分かります。それだけでなく姑の信仰をも尊敬の念で

受け入れていたのでしょう。二人の間には信仰的な、また人格的な麗しい

一致がありました。

 

 ベツレヘムで物語は急展開するのですが、続きはここでは省きます。

もっとも驚くべき事実は、この家族から、やがてイエス・キリスト

系譜に名を連ねる重要な人物が出たということ。確かにイエス系図には、

ルツの名前が書き記されているのです。

 名もなき女性のひたむきな信仰が、世界を大きく変える一歩となった

という事実に心が震えます。そして、ルツ記を読むたびに、清々しい

風が全身に吹き抜けるのを感じます。

 

※写真:小5の孫が手作りパンを届けてくれました。しばし我が家が、

ベツレヘム(パンの家”)になりました。 モチモチして、とても

美味しいパンでした(*^^)v