シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

いつも同じ切り口で、金太郎飴のように。

 

どこを切っても切り口に金太郎の顔が現れる棒状の飴。

なぜか子どもの頃から金太郎飴が好きでした。素朴な味も

好きでしたが、舐めても舐めても消えない金太郎。それが

子供心にも面白かったのでしょう。

 

そろそろ孫たちへのクリスマスプレゼントを選ぶ季節になった

ので、先週、二子玉川にあるデンマーク発祥の雑貨店、

フライングタイガーへ行ってきました。

 

中学生、小学生の孫がそれぞれ喜びそうな小物、雑貨も

見つかって一安心。ふと、お菓子のコーナーに目を移すと、

フルーツの絵をあしらった金太郎飴が! 色も果物の絵も

可愛いかったので、これは自分用にと思い、買い物かごに

入れました。

北欧風のキャンディの味なのかなと思い、一粒食べてみると、

意外にも日本の味とほぼ同じ。 素朴で優しい味でした。

家族で飴を食べるのは私だけなので、これからしばらくは

金太郎飴を楽しめそうです(*^^)v

 

どこを切っても同じ切り口という視点で考えると、金太郎の

絵は、聖書が伝える「福音」に少し似ているかもしれません。

 

福音とは“良き知らせ”“グッドニュース”のこと。

どんな知らせ、ニュースかというと、

「罪深い私たちが、救い主であるイエス・キリストを信じる信仰に

よって救われ、新しいいのちに生まれ変わることができる」

という良い知らせ、良いニュースです。

 

聖書は一貫して、この福音を宣べ伝えています。約2000年前から

全く変っていません。それぞれの時代に見合う翻訳をめざし、

改訂版が出版されることはありますが、内容は全く変わりません。

いつも変わらずというところは、金太郎飴、よく似ていますね。

なんだか親しみを覚えます。

 

いつか、どこかで、誰かに福音を伝える機会が与えられたなら、

金太郎飴のように、いつも変わらぬ切り口で福音のエッセンスを

宣べ伝えることができたらいいなと思っています。

 

霧の摩周湖から届いた贈り物

 

世代は違うけれど、親しくしている若い友人から、

封書で、北海道旅行の可愛いお土産が届きました。

 

小さな木彫りのストラップ。入っていた小袋には

道の駅摩周湖温泉のお店の名が書かれていました。

 

摩周湖と言えば、やはり“霧の摩周湖”となりますよね。

15年前、私も行ったことがある場所です。

定年で現役を引退する夫を労う、記念旅行の時でした。

ツアー旅行でしたから、当然、北海道屈指の観光スポット、

摩周湖は外せません。日本一の透明度を誇る湖を、この目で

見たいと思いつつも、一面、霧に包まれ全貌をつかむのは

難しいと言われる摩周湖です。

 

その日もお約束(?)通り、霧がかかっていました。

「この先が湖です」と言われても、本当に何も見えません。

ガイドさんの「念力で霧を晴らしましょう」の掛け声に、

待つこと数十秒。

 

あら‥。念力が効いたのでしょうか。

ほんの一瞬ですが、風が霧を吹き払い、おもむろに姿を現した

湖を目に焼き付けることができました。ただ、シャッターチャンスを

逃してしまった悔しさ、今、思い出しました。でも空は青空(*^^)

 

摩周湖阿寒国立公園の中にありますが、公園で見つけたリスも、

懐かしい思い出の一コマです。

 

聖書には「霧」を含む聖句は多くありませんが、口語訳聖書に

次のようなものがあります。

 

 ‥彼らは朝ののように、すみやかに消えうせる露のように、

  打ち場から風に吹き去られるもみがらのように、

  また窓から出ていく煙のようになる。

                 ホセア書13章3節

 

  わたしは、あなたのとがを雲のように吹き払い、

  あなたの罪をのように消した。

                イザヤ書44章22節

 

霧というものは、すぐに消え去るもの。そして、その後、速やかに

晴れるものをイメージさせますね。霧そのものも潤っていますが、

次の晴れる瞬間を期待して待つ、私たちの心にも潤いをもたらす

気象現象と言ってよいでしょう。

 

晩秋の北の大地。素敵だろうなぁ‥と、木彫りのストラップを

眺めながら、想像を逞しくしています。

セイタカアワダチソウへの誤解を反省する

 

間違った情報や、根拠が不確かな噂がまかり通るということは

ままあることだと思います。例えば、セイタカアワダチソウ

 

よくブタクサと同じ植物のように思われていますが、実は

まったく違う種類の植物なのだそうです。どちらにしても、

一般には、花粉を撒き散らす厄介ものという認識の野草ですね。

 

ところが、それが大いなる誤解だということが分かりました。

たまたまネットで読んだ記事によると、セイタカアワダチソウ

虫媒花で、アブやミツバチによって受粉をする植物、ブタクサは

杉の木のように花粉を風で飛ばして繁殖する植物なのだそうです。

同じような黄色い花をつけますが、葉っぱの形で見分けられるの

だとか。セイタカアワダチソウは笹の葉のように尖っていて、

ブタクサは菊の葉のようにヒラヒラしているそうです。

 

実は、23日(日)の礼拝後、講壇脇に飾られた生花から、少し

お裾分けして頂き、持ち帰ってきた中にセイタカアワダチソウ

含まれていました。よく見ればきれいな花ですが、かくいう私も

花粉を警戒していましたね~(^o^;) アレルギー体質の家族の

ために、室内ではなく、窓からでも見えるベランダのテーブルに

飾りました。

 

ネットの記事を読み、葉っぱの形を確認すると、これは紛れもなく

セイタカアワダチソウで、全く心配無用の花のほうでした。あらぬ

誤解によって、天下の嫌われ者にされてしまうこの野草が、なんだか

不憫に思えてきた一コマでした。

 

小学生だった孫が、大人顔負けの植物博士だった時期があります。

幼稚園に通う妹の運動会当日、競技を観るのもそっちのけで野草探し。

ルンルンでセイタカアワダチソウを肩にかけ、スキップして

回る男の子を、みんな避けるように歩いていましたっけ(~_~;)

 

 

「本当に泡が立つか実験してみる」

「くしゃみが出るから、やめておきなさい」

 

そんな会話をした記憶があるのですが、実は本当に泡が立つと聞き、

あらためてビックリ。花を乾燥させ、熱湯に漬けて抽出したエキスを

撹拌すると、花に含まれる「サポニン」という物質が作用して泡が

立つのだそうです。

 

セイタカアワダチソウにも孫の実験にも、先入観で、つい疑いの目を

向けてしまったことは、「ごめんなさい!」ですねm(__)m

 

風評被害ということばもありますが、何事も自分勝手な思い込みで

判断することのないように気をつけたいものです。

 

心配事の9割は、実際には起こらない

          ※ 紫陽花の返り花

「心配事の9割は実際には起こらない」というインパクトの

ある言葉を、何かの本で目にしたことがあります。

 

人間の心はなかなか複雑に出来ていて、心配や不安の種が

芽生えると、それがいつの間にか増殖し、気がつくと

八方塞がりになっていることがよくあります。

 

上の言葉は、楽天主義的に、文字通りに解釈するものではなく、

心が疲弊し、擦り切れるほどに心配したり、悩み苦しむことの

ないようにという、戒めの意味を含む言葉のようにも思えます。

 

確かに、雪だるまのように膨れ上がった心配事は、心の90%を

占めてしまうほど悩ましいものだと思います。ですが、心配事の

正体を突き詰めていくと、それは妄想であったり、取り越し苦労に

過ぎなかったり‥ということはよく聞く話ですよね。

 

思い煩いによって心が占領される時、まずは冷静に、心配事の

根っこにある塊(かたまり)を探すことが、先決かもしれません。

心の根っこに陣取った悩みの正体が見えてきたら、周りを囲んでいる

余計なモヤモヤ部分を、一つずつ、引き算していけば良いのです。

 

さあ、それから先は神さまの領域です。まだ残る不安や恐れを、

いったん神さまに預けることから始めるのが良いでしょう。

信じる者の明日を守り、責任を持ってリードしてくださる神さまに

全権をお委ねして祈ること。平安な心こそが、最強の心配事処理法。

そんな心の持ち方が出来たらハレルヤ(心も晴れるや)ですね(*^^)v

 

 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。

 明日のことは明日が心配します。

 苦労はその日その日に十分あります。

                マタイの福音書6章34節

子育てのゴールは、子別れである

   コーヒーの木に豆が‥

昨日、今日と急な冷え込みに震え上がっています。

一昨日は半袖を着ていたのに、今日は長袖2枚でも肌寒いほど。

この季節、実は大の苦手です。冬から春に変わる三寒四温

時期もそうですが、秋風が立つ9月、10月は、私にとって最大の

関門。体内バランスが季節に追いつかないのでしょう。

 

息子たちや中学生の孫は毎日、電車で通勤、通学しています。

早朝、それぞれの家から自転車を走らせ最寄り駅へ向かうので、

そろそろ防寒グッズが必要ですね。

 

気がかりなのは、中1の孫が、とても薄着であること。

細身なので、いっそう寒々と見えます。半袖で過ごすことが多く、

よほど寒くならない限り上着を着ません。

「今日は上着を着て行ったかなぁ」と、氷雨降る空を見上げては、

気を揉んでいます。傍に親がいるわけだし、祖母が心配するまでも

ない、それこそ老婆心以外の何物でもないのですが(^o^;)

 

以前、教会主催の講演会で、子育てについて興味深い話を

聞いたことがあります。「子育てのゴールは、子別れである」

というもの。子どものために「何をしてあげられるか」という

「足し算」から、子どものために「何をしないようにするか」

という「引き算」に、考え方をシフトするという内容でした。

 

年齢に応じ、口を出したり手助けすることを減らしていき、

子どもの自立を妨げないようにする。反抗期は親離れに必要な

プロセスであるので、思春期にさしかかったら「一定の自由と

責任」をセットで与え、親が尻拭いをしない。孫のケースで

言えば、薄着をして風邪をひくのも自己責任。そう気づかせる

ことも、子育ての手の内ということなのですね。なかなか、

情が邪魔をして、難しいところではあります(^o^;)

 

「子育てのゴールが、子別れである」

 

子育ての極意とも言える深い言葉です。

振り返れば、十分とは言えなかった我が子育ての日々を反省しつつ、

今、子育て真っ最中の息子夫婦には、あらためてしっかり伝えたい

言葉だと思いました。

 

 

クリスマスカードを作る季節がやって来た


毎年季節ごとに、ブログに書く話題が似たような内容になって

います。一介の主婦の持つ引き出しの中身など、たかが知れて

いますから、いつも乏しい持ちネタの中から、絞り出すように

して書いています(^o^;)

 

この季節、まだクリスマスの準備には早すぎると思われるかも

しれませんが、私にとってはカード作りのスタート時期。

もう10年以上にもなりますが、作ったカードを教会に献品し、

教会員の方々にお買い上げいただき、その収益金をクリスマス

献金として捧げています。

 

他にリクエストがあれば、教会員以外の方にも作って差し上げて

います。もう10年若い頃は、100部以上でも余裕で作れましたが、

目も指も怪しくなってきた今は、50~60部が限界かも…。

でもカード作りは私の最も楽しい趣味の時間ですので、時間の

空く限り、アイディアが浮かぶよう、頭を巡らせています。

 

図案が決まるまでが、産みの苦しみというか、一苦労ですね。

図案が決まり、一枚サンプルを作ってしまえば、そこから先は

幸せな作業。至福の趣味の時間となります。1図案✕5枚ほどを

手を休めず黙々と作り続けます。

 

一応、主婦ですから、家事の合間の僅かな時間を利用して、

作業部屋にこもります。描いたり、塗ったり、材料を選んだり、

切ったり、貼ったり…と、たぶん皆さんが想像する以上の工程が

あり、頑張っても、一日に3枚完成が精いっぱいでしょうか。

孫たちが来る日もあれば、外出して作れない日もあるので、後で

慌てないためにも、この時期からスタートするというわけです。

まだ図案は5、6種類くらい。こんな感じです(*^^*)

 

 

もともと手仕事は好きな方ですが、カード作りが最も楽しい

作業かもしれません。材料を前に、フッとアイディアが降りて

きた時とか、「ヤッター!」という気分になります。

時間と根気さえあれば、それでOK。実に安価な趣味を持つことが

本当に嬉しい限りです。

 

さて、今年は何枚できるかな? ひとまず、頑張ります(*^^)v

「敬老の日」~思いを新たに~

 

          ホトトギス

 

9月19日夜、中学生と小学生の孫から電話が来ました。

「今日は敬老の日だから、電話したんだよ」と。

 

もう、「敬老」の対象であることは重々承知していますが、

忌憚のない孫たちの言葉によって正真正銘、れっきとした

老人であることを自認するに至った次第です(~_~;)

 

9月初旬、教会で発行している教会便りに、「老い」を扱った

記事が掲載されました。少し長いですが聖書の当該箇所のみを

紹介したいと思います。

 

「その日、家を守る者たちは震え、《 腕が弱る 》

 力のある男たちは身をかがめ、    《 足腰が弱る 》

 粉をひく女たちは少なくなって仕事をやめ、

              《 歯が減り、噛む力が弱くなる 》

 窓からながめている女たちの目は暗くなる。 

              《 視野が狭くなり、視力が落ちる 》

 通りの扉は閉ざされ、           《 両耳、聴力の低下 》

 臼(うす)をひく音もかすかになり、     《 声が出なくなる 》

 人は鳥の声に起き上がり、         《 浅い眠りと早起き 》

 歌を歌う娘たちはみな、うなだれる  《 ことばの混乱 》

 人々はまた高いところを恐れ、     《 高所恐怖 》

 道でおびえる。                    《 不安 認知症 徘徊 》

 アーモンドの花は咲き、            《 白髪になる 》

 バッタは足取り重く歩き、          《 歩行困難 》

 風鳥木(ふうちょうぼく)は花を開く。《 生殖能力の衰え 》

 人はその永遠の家に向かって行き    《永遠の家=墓?》

 嘆く者たちが通りを歩き回る。      《 葬儀の準備 》

 こうしてついに銀のひもは切れ、金の器は打ち砕かれ、                 

                 《 血液循環器系統の故障 》

 水がめは泉のかたわらで砕かれて、

 滑車が井戸のそばでこわされる       

                  《 内臓の機能不全 》

 土のちりは元あったように地に帰り、

 霊はこれを与えた神に帰る。」       

               (伝道者の書12章3-7節)

 

聖書は肉体の衰えを、ただネガティブに捉えるのではなく、

比喩を用いて淡々と、ありのままの現実を描写しているのが

分かります。そして老いの事実を受け入れながらも、内面を強く

保ち、ポジティブに生きるにはどうすれば良いか、示唆を与えて

くれます。

 

「人はその永遠の家に向かって行き」とありますが、イエスさまは

わたしを信じる者には、「あなたがたの住まいを用意しておく」と

約束されています。老いと死の先にある、この世の墓ではない

「永遠の家」に目を向けること。ここに確かな望みがあります。

 

これから後、肉体の弱さを覚える日々は増えていくでしょう。

でも、老いの重荷に打ちひしがれることなく、尚も永遠の住まいに

希望を抱いて向かって行く、ゆとりあるアクティブ・エイジングを

目指したいものです。