シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

生まれたての春を探しに‥

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礼拝を終えて帰宅し、昼食後、春の陽気に誘われて

買い物バッグを手に、春を探しに外に出てみました。

スーパーまでの道々にも、生まれたての春が顔をのぞかせて

います。沈丁花タンポポホトケノザ、菜の花‥。

 

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我が家のベランダも黄水仙が咲き、木瓜の蕾がほころび

始めています。春爛漫まで、あと一歩の時期でしょうか。

 

「ムラサキハナナ」もきれいに咲いています。カタカナで書くと

どんな花? と首をかしげたくなりますが、「紫花菜」と漢字で

書けば、ぐんとイメージが湧いて来ます。

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この花の中国名は「諸葛菜(ショカツサイ)」。

諸葛孔明が大群を率いて野営し、戦いに臨む時に地に種を蒔いて

育て、その若い葉を食用にしたという、兵糧の野菜だったことから

名付けられたのだとか。

 

花言葉は「知恵の泉」「あふれる知恵」。いかにも知恵者、孔明

名にふさわしい、納得の花言葉ですね。

 

聖書には、知恵の素晴らしさを表現するフレーズがたくさんあります。

 

 知恵を得ることは、黄金を得るより はるかに良い。

                  箴言16章16節

 

 知恵の価値は真珠にもまさる。  ヨブ記28章18節

 

たしかに知恵はどんな宝玉にも優る価値あるもの。身を救うもの。

知識よりも、いざという時に役に立つ、たくさんの知恵を持つ者に

私もなれたら良いな‥。穏やかな弥生の風にそよぐムラサキハナナを

眺めがら、ふとそんな思いが湧いてきました。

笛の音は時空を超えて

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2月末~3月初めにかけて、川崎市大山街道ふるさと館主催の

カルチャー展が開催されました。コロナ禍での活動は何かと

難しさがありましたが、いくつかのグループが協力し合って、

地元の方々と交流ができたことに、心から感謝しています。

 

今回、私が出品したのは「笛の音は時空を超えて」という

タイトルのアクリル画。モデルはインディアン・フルート奏者の

マーク・アキクサさんです。

 

長いこと人物デッサンを習っていましたが、人物画は難易度が

高く、つい敬遠していました。でも、マーク・アキクサさんの

演奏する姿を見て、初めて描いてみたいと思うようになりました。

演奏する時の姿勢がとても美しいのです。マークさんを描くのは

今回で二度目になりますが、少しは雰囲気を出せたのでしょうか。

 

時空を超えたフルートの調べを、私の拙い絵から想像するのは

かなり無理があると思いますので、実際の笛の音をお聴きください。

心の琴線に触れる音色に聴き入ってしまうと思います。

        ⇩ ⇩ ⇩ ⇩ ⇩

  https://www.youtube.com/watch?v=WvtNPgZpsKc

 

笛は、天地万物を創られた神さまへの賛美と、感謝の祈りを

届ける“管”(くだ)の役割を担うもの…。笛には神と人をつなぐ、

パイプの働きがあるのかもしれませんね。

 

愛唱聖歌『主の愛の汝(な)が内に』(聖歌578番)

3番

通りよき管(くだ)となり み恵みを取り継がん
御霊(みたま)にて満ちあふれ み栄えをあらわさん
用い給え わが主よ 用い給え われをも
み恵みを取り継ぐに 通りよき管(くだ)として

 

 

神さまの電話番号 “5015番”

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若い頃、英米文学に親しんでいましたが、難解な書物が多い中で、

子どもにも人気がある『ロビンソン・クルーソー』は大好きな

一冊でした。誰でも、一度は読んだことがあるかもしれません。

 

ロビンソン・クルーソーは若い時、両親と衝突し家出をします。

船乗りになりますが、海賊に遭遇したり、嵐で船が難破したりと、

さんざんな苦労の連続の果てに、絶海の孤島、いわゆる無人島に

漂着します。それは、以後20余年にも及ぶ、苦難の人生の

幕開けとなりました。

 

島に流れ着いてまもなく、死をも覚悟するほどの酷い熱病にかかり、

藁にもすがる思いで、荷物に入れてきたはずの聖書を取り出します。

そして、次の箇所を見つけたのです。

 

    苦難の日に

    わたしを呼び求めよ。

    わたしはあなたを助け出し

    あなたはわたしをあがめる。

          (詩篇50篇15節)

 

彼はそれほど信仰が篤い人ではなかったようですが、孤独と飢えと

死への恐怖という極限状態の中で、遂に「苦しい時の神頼み」の

心境に陥ったのでしょう。ごく自然な人間の姿かもしれません。

 

「もうダメだと限界を感じた時こそ、人が神さまと出会う時」

礼拝説教で聞いたことばが思い起こされます。

絶望の中でロビンソン・クルーソーが立ち直り、前に進むことが

できたのは、神さまに祈り、対話する中で与えられた本当の

心の安らぎ、それこそが、艱難(かんなん)辛苦に耐えられた

理由だったのではないでしょうか。

 

このドキドキ、ハラハラの連続である冒険小説の著者、ダニエル・

デフォー自身も、実に波乱万丈の生涯を送った人物のようです。

世間の批判にさらされ、孤立無援であった自分の生涯を、主人公、

ロビンソン・クルーソーの生きざまに投じたとも言われています。

 

以前、ある宣教師夫人が教えてくれました。

 

 「5015番(旧約聖書50篇15節)は、神さまの電話番号です。

 悩む時、苦しみや悲しみがある時、ぜひこの番号に電話をかけて

 みてください」

 

私も人生の岐路に立たされた時、試練にあった時、悩み、苦しみの時、

この番号を思い出し、神さまからの心の平安を戴くようにしています。

食卓は生活のバロメーター

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    12歳の板前さん(孫)が上手に捌きました。

一度聴くと、ずーっと耳に残る歌詞とメロディってありますよね。

今月、教会で歌っている賛美歌もそんな一曲です。

どんな曲か、まずは動画でどうぞ… ⇩

https://www.youtube.com/watch?v=F_dhspxG858

 

教会福音賛美歌265番「主の食卓を囲み」という賛美歌です。

「マラナ・タ」とはアラム語で「主よ、来てください」の意味。

「マラナ・タ~、マラナ・タ~」 リフレインが止まりません(^o^;)

 

1番 主の食卓を囲み、いのちのパンをいただき、

   救いの さかずきを飲み、主にあってわれらはひとつ。 

   マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国がきますように。

   マラナ・タ、マラナ・タ、主のみ国がきますように。

 

仕事や付き合い上の会食は別として、共に食事をするというのは、

親密さの度合いを表すものだと思っています。食卓を囲むということは、

大切な家族や友人知人と、大切な時間を共にすることであって、それは

単に飢えや渇きを満たすだけの場所ではありません。ご馳走が体の栄養に

なるのと同様に、お互いが心の栄養となる場所だと思うからです。

 

『今日のパン、明日の糧』(H.ナウエン著/聖公会出版)の中の一節。

とても興味深く、頷けるところがあるので記しておきます。

 

食卓は、人々が、共にいてくつろげる場所ですが、よそよそしさや、

敵意や、憎しみすら感じる場となりやすいこともまた、誰もが

よく知っていることです。人々が親しくくつろぐためにある

という、まさにその理由のために、食卓は、そこにくつろぎが

欠けていることを経験する場所ともなりやすいのです。食卓は

また、私たちの内にある緊張を明らかにします。夫婦が互いに

口を開こうともしない時、また子どもが食事をしようとしない時、

兄弟姉妹が口げんかをする時、重苦しい沈黙が覆う時、食卓は

地獄となり、一番近づきたくない場所となってしまいます。食卓は、

家族生活の、またコミュニティーとしての生活のバロメーターです。

食卓が、共にいてくつろげることを喜べる場所となるように、

出来るだけのことをしようではありませんか。

 

くつろぎのためにある食卓。視点を変えれば、くつろぎの欠如。

それを埋めるためにある食卓。この構図、なかなか意味深ですね。

マラナ・タの歌詞のように、そこに主が来られる時、食卓は

ひとつの心になれるのでしょう。共にくつろげる食卓になるよう、

ベストを尽くしたいものです。

 

雪のように、羊の毛のように

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          宮城県気仙沼市の雪景色 震災の翌年2012年に撮影

朝から、今年二回目の雪が降っています。

白い雪が舞う窓外の景色は麗しいものですが、通勤通学の人には

路面凍結の不安も…。どうか人々の足が守られますように。

 

聖書の中に「雪」を例えとする記述があります。

 

 「たとえ、あなたがたの罪が緋(ひ)のように赤くても、

    雪のように白くなる。

  たとえ、紅(くれない)のように赤くても、

    羊の毛のようになる。」    (イザヤ書1章18節後半)

 

真っ白いものの例えに、「雪」は必ず挙げられる一つでしょう。

でも全く雪を知らない国の人に、雪がどれだけ白いかを伝える

のは難しいことだと思います。今でこそインターネットの普及で

色彩が共通認識であるかのように思われますが、古代世界であったり、

全く情報の閉ざされた未開の地域に住む人には、色のイメージや

定義が違っていて当然のことかもしれません。だから、この聖書に

ある「羊の毛」=「白い」も全く不思議なことではないのですね。

 

また「罪が緋のように赤くても…」とあります。緋色(ひいろ)

とは、スカーレット(scarlet)。明るく真っ赤な色のこと。

陶芸の信楽焼を題材にした朝ドラ「スカーレット」もありましたね。

 

緋色というと、ホーソン著『緋文字』(米文学)が思い浮かびます。

罪を犯した代償として、胸当てに緋色で刺繍された文字の烙印を

押され、厳しく良心を問われながら生きていく…という小説。

 

自分ではどうしても消すことのできない罪による真っ赤なシミも、

エスさまが十字架で流された血潮によって清められ、雪のように

白く、また羊の毛のように白くされる。それはまさに奇蹟です。

奇蹟の消しゴム。イエスさまの血潮に感謝するばかりです。

 

今日は予定がキャンセルになったこともあり、北京五輪ライブ、

フィギュアスケートの氷上の舞いを楽しみながら、ちらつく雪を

飽かず眺める静かな昼下がりとなりました。

 

雪が降ると聴きたくなる一曲。アダモの「雪が降る」です。

いつ聴いてもうっとりしますね~♪ どうぞ、ご視聴ください。

雪が降る - アダモ - YouTube

聖書通読の醍醐味とは‥

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                           節分草

昔々のミッションスクール時代、礼拝説教であったか

授業で語られた言葉だったか、定かではないのですが、

その時に心に刷り込まれたことについて、少し書いてみます。

 

「Bible」は一般に「聖書」と呼ばれていますが、Bibleとは

本来「The Book」、つまり「本」という意味で、さらに言うと

「the book of books」、つまり「本の中の本」。定冠詞の付く

特別な一冊であり、数多(あまた)の書物と一線を画する本で

あること。なんか、よく分からないけれど、他に類のない凄い本

であることに驚き、目の前の「聖書」を見つめ直したものでした。

 

それから数十年、紆余曲折を経て、晴れてクリスチャンに

なった私ですが、本格的な聖書通読に取り組んだのは数年前。

さまざまな通読用の手引はありますが、どうも長続きしません。

そこで、まずは継続することを目標に、自分流にアレンジしながら

ゆっくり読み進めています。

 

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今年は、出身校から送られてくる「学院時報」のコラムを切り抜き、

ファイリングしたものを通読の一助としています。「学院時報」は

季刊誌ですので年4回。それでも、何十年分ともなると相当な

分量になります。大学ノート4冊分、この十分すぎる参考書の

助けを借りて、今年も聖書通読を進めていきたいものです。

 

自分が「そうかもしれない」と考えていたことが、はっきり

正しかったと分かった時。 反対に、明らかに自分が間違って

理解していたことに気づいた時。 自分の物差しではなく、

神さまの物差しで測ることによって、曖昧な価値基準が是正され、

新しい価値観が確立されていきます。その時に内側から静かに

湧き上がる喜び、そこに聖書通読の醍醐味があるのではないか。

私はそのように感じています。

 

進むべき道の道先案内人、人生の大海原の水先案内人。

いつも聖書のことばに導かれ、歩んでいきたいものです。

 

聖書のみことばは どの一語も、自己という粗末な掘立小屋から、

神がご自分を現された 見事な外界に導いてくれる窓やドアのような

ものである。神は空に、海に、木に、花に、イザヤやヨハネに、

そして最後には完全にイエスに、ご自身を現されたのである。

          (ユージン・ピーターソン:米・神学者

 

「感謝」は健康の秘訣

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ネット記事を読んでいて、とても興味深い記事に出会いました。

あの有名な「卵ボーロ」にまつわるエピソードです。

菓子製造会社社長の竹田和平さん(故人)は、人が怒っている時に

吐く息を詰めた袋に虫を入れておくと、まもなく死んでしまうこと。

また人が笑う時に吐く息を詰めた袋の中では、長く生きている

という説に目を留めました。その説とは、アメリカの心理学者、

エルマー・ケイツ博士の実験結果によるものだったようです。

 

心理状態が健やかな人の呼気をガラス管に吹き込んだ場合、

息の中の揮発性物質が固まり、免疫物質を生じさせる。

一方、怒りや憎しみを持つ人が吹き込んだ管のほうはカスが残り、

有害物質となるというもの。

 

つまり、穏やかな人の呼気であれば異常無し。悪感情の呼気は、

体内に毒素を生むということになりますね。よく「毒を吐く」と

言いますが、科学的根拠があることがよく分かりました。

 

卵ボーロの話に戻りますが、武田社長は、製造者の心の状態は

必ず反映されると信じ、全社員に「ありがとう」の言葉の実践を

言い渡したとのこと。百万回の「ありがとう」を受けて世に

送り出された「卵ボーロ」は、誰もが知る有名菓子となりました。

 

「ありがとう」という感謝の心理波動は、免疫力を高める

有益物質を生み出すことが医学的にも証明されました。

それならば三度の食前の祈りも、ぜひ取り入れたいものです。

まず今日も健康で、美味しく食事ができることに感謝し、

食材に感謝し、生産した人に感謝し、料理してくれた人に感謝し、

そして何より、必要な日照や恵みの雨をもたらしてくださった

神さまへの感謝に帰結し‥。心からの「いただきます!」を。

 

そうは言っても、なかなか感謝できないこともあります。でも、

別の角度から感謝に置き換えることは可能です。エネルギーは

要りますが、その置き換え作業は自分を鍛錬することにもなり、

とても有意義なことだと思います。どんな小さなことでも、

「感謝」を捜してでも見つけること。

これが健康の秘訣ではないかと思っています。

 

 いつも喜んでいなさい。

 絶えず祈りなさい。

 すべてのことにおいて感謝しなさい。

 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに

 望んでおられることです。

     テサロニケ人への手紙 第一 5章16-18節

 

※写真は昨年末に収穫した人参。葉っぱも美味しく頂きました。