シャロンの薔薇

聖書から学んだこと・日々の出来事・ハンドメイド

チコちゃんに叱られないように

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以前、ブログにも書いたことがありますが、ギリシア語には

時を表す「クロノス」と「カイロス」という言葉があるそうです。


端的にいうとクロノスは「時刻」を、カイロスは「時間」、

「機会」、さらに言うと「決定的瞬間」を表すとのこと。

時計の針が刻む量的な時間がクロノス、その時だけの質的な

時間がカイロスと言えるでしょうか。

 

昨年12月のキャンドル礼拝でのメッセージが、カイロス
ついての言及でした。永い時を刻んできた人類の歴史の中に、
神様が周到に計画された、ただ一度だけの出来事。それが
クリスマスという「カイロス」の時であると。


ギリシア神話にも神カイロスが登場します。機会を司る
神様だそうです。カイロスは長い前髪がありますが、後頭部は
禿げています。だから前からやってくれば、その前髪をつかむ
ことができますが、いったん通り過ぎたら、もう後ろからは
つかめません。ふいにカイロスが現れるという、千載一遇の

チャンスが訪れた時、見逃すことのないようにしたいものです。

TVのチコちゃんに、「ボーッと生きてんじゃねーよ!」と、

叱られないためにも(^o^;)


写真は昨年、夏の陶芸教室で二人の孫とおばあちゃんが作った

掛け時計。上から祖母、9歳男児、6歳女児の作品です。

出来栄えは、個性あふれる孫たちに軍配ですね。

掛け時計は見やすさが一番なので、3作品ともグッジョブです!



朝にあなたの種を蒔け

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新年おめでとうございます。

かなりゆっくりペースのブログですが、今年は少しだけ
更新頻度をアップできるよう、努力したいと思っています。
本年も引き続き、よろしくお願いいたします。

毎朝、欠かさずレモンジュースを飲んでいたおかげで、
一年間、風邪らしい風邪もひかず、秋の健康診断では
「H」の数値が一つ、血小板のみ。血小板「??」
先生からは全く問題なしとの、お墨付きをいただきました。
レモン効果、恐るべし!

それなのに、油断したのか年末に喉に痛みが‥。
市販薬で何とかおさめて、おせち料理に取りかかりました。

昭和48年に結婚し、ずっと作り続けているおせち料理
かなりの時間と労力を要するし、もうやめても良いかなと
毎年、毎年思いながら、なぜまた台所に立つのでしょう。
すっかり、脳内に刷り込まれているのでしょうか?

『いのちの継承』(小原 信著/新教出版社)という本の、
「種をまく」という頁に面白いことが書いてありました。

人生という旅路の朝になされる種まきは、その人の魂に
初期の刷り込みを行う作業である。

もし人生の初期に、うまく刷り込みができるなら、
その人の「心のふるさと」として、生き方の枠組みを
大きく左右することになる。

旧家で育った母は、何段もあるお重の料理を作る
母親の大変さを見、新年の朝の挨拶に何か所も回らされ、
おせち料理ありつく前には、ヘトヘトになったのだとか。
その反動のせいか、母は重箱やお正月の決まり事に囚われず、
みんなが好きなものしか作りませんでした。お雑煮、あんこ餅、
伊達巻、お煮しめ松前漬け‥。母の得意料理のイカの粕漬け、
くるみ餅、ごま餅、酢の物もあったかな。

幼い頃にインプットされた「おせち料理」は、母の味。
私も家族が喜ぶものしか作りません。(作れません^^;)

年齢と共に、作るのが億劫になってきているのは事実ですが、
体の自由がきくうちは、きっと作り続けるのでしょうね。
上述の本にも、こう書いてありました。

われわれの人生には、二つの忙しさ、二つのおもしろさが
混在している。楽でたのしい忙しさと、辛いが やりがいの
ある忙しさである。

おせち料理は一例だけれど、孫たちの心にも良い種が
蒔かれることを年頭に祈りたいと思います。

「朝にあなたの種を蒔け」(旧約聖書 伝道者の書11:6)

光の管理者であれ


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今年もアドヴェント・シーズンがやって来ました。
4つの燭台に毎週一本ずつキャンドルを灯し、静かに
エスキリスト降誕を待つ習慣は、日本にはない
味わい深い文化のように思います。


昨日はアドヴェント第二主日礼拝。イザヤ書からの
メッセージでした。いつも何か一つ、ピピッと響いた
フレーズを覚えて帰ろうとノートにメモをしているのですが、
この日は特に、アドヴェント“光を管理するシーズン”で
あるというくだりが印象に残りました。

「起きよ。輝け。
まことに、あなたの光が来る。主の栄光があなたの上に輝く」
              (イザヤ書60章1節)


「あなた」とはシオン、つまりイスラエルを指しています。
ペンネームが「紫音(しおん)」」なので、聖書にシオンの
文字を見つけると、なんとも慕わしい気持ちが湧いてきます。
余談ですが‥。


あなたの光とは?
それは自前の光ではなく、神様が輝かせてくれる光。


どのようなところへ来る光か?
「背きから立ち返る者のところに。」と、イザヤ書5920節に
あります。


生煮えの、踏み込まない祈り、中途半端な浅い祈りではなく、
神様に背を向けている罪を悔い改めて、真剣に祈りを捧げる時、
シオン自らが輝くのではなく、神様の栄光がシオンを輝かせて
くださる。

エス様の十字架上のあがないによって、新しく生まれた
クリスチャンは世の光であるとも宣言されています。
この神様の光を広く告げ知らせることも大事な務めです。
輝きがいつも新鮮なものであるように、また光が消えない
ように、手入れを怠らず管理しなければなりません。

神様への感謝とクリスチャンとしての自覚を、あらためて
知るアドヴェントのメッセージでした。


※写真はスウェーデンの雑貨を扱うお店で見つけた
 オーナメント(男の子と女の子)。なんとなく二人の孫に
似ていて、つい衝動買いしました。


賢人になるための条件

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ネットで調べ物をしていたら、目的とは別のコンテンツに
目が留まりました。「賢人になる七つの条件」というものです。

【賢人になる七つの条件】
1.自分より賢い人がいる時は沈黙する
2.人の話の腰を折らない
3.答える時に慌てない
4.常に的を射た質問をし、筋道だった答えをする
5.まずしなければならいことから手を付け、後回しに
  できるものは最後にする
6.自分が知らない時は、それを認める
7.真実を認める

正直なところ、これまでの自分流の生き方を吟味してみると、
この七つの条件にドンピシャではないなと、認めざるを得ません。
そこそこ、大人の言動はしているつもりですが、理性より感情が
先行する場合もあるし、真実を受け入れるのに自尊心が邪魔を
する時もあります。長く生きていても、賢人になるのは難しい
ことのようですね。

特に私の課題は3、4、5番目あたりでしょうか。
書くことに抵抗はないのですが、話すのは大の苦手。
自分が話す番が回ってくる時など、冷や汗タラタラ(-_-;)
慌てて、頭が真っ白になります。要点をしぼれないから、
的を射た質問とか筋道だった答えなど、無理難題‥。
何とか心を静め、呼吸を整えて臨むようにしていますが。

物事の優先順位については、十分に気をつけてはいるのですが、
思いつきで順番無視をすることもしばしば(^o^;) 後が大変に
なることは百も承知なので、ここは厳重注意です!

賢人の条件の大半は、対人関係にあるようですね。
聖書にも、こんな箇所があります。

何事も利己的な思いや虚栄からするのではなく、
へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。
          (ピリピ人への手紙 2章3節)

「出逢った人すべてから、何かを学べる人が最も賢い」という
ユダヤの格言もあります。今日出会う、一人ひとりの方から
何かを学びとって、昨日より賢い自分を目ざしたいものです。

※写真は美味しそうな干し柿。先人の知恵、賢さにも習わねば!

白血球のように生きる

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「何のこと?」という声が聞こえそうな、妙なタイトル
ですが、最近聞いた礼拝説教の中で、特に心に残った
言葉なので、書きとめておこうと思います。


賀川豊彦という人物をご存知でしょうか。

大正・昭和期における様々な社会改革運動の先駆者と

言える人物です。


生活の土台を築いた人といえば、その偉業の一端が
分かるかと思います。
生涯にわたって社会の底辺にある人や弱者の側に立ち、
救貧活動を展開しました。


クリスチャンであった賀川豊彦は、

「人格的白血球運動者になれ」

との言葉を残しています。
白血球の役割は、体内に入り込んだ病原菌を、自ら
引き受けて血液をきれいにすることです。言うなれば、
正義の味方みたいな感じでしょうか。


お腹が空いた人に、自分の頭をちぎって食べさせてあげる
アンパンマンにも通じるものがあるような気がします。
さらに言えば、人類の罪の身代わりに十字架につけられた
イエス・キリストの生き方に重なります。


他にも、こんな言葉も残しています。


「愛とは尻ぬぐいをすることである」

「犠牲を伴わない愛は、愛ではない」


人が捨てたゴミを、自分のゴミとして拾う生き方。

自分が汚したわけではないトイレを掃除する生き方。


とても快い生き方とは言えませんが、世の中の汚れた
ものを避けて通らず、きれいに整えていく生き方は、
どこか潔さ、清々しさを感じます。


「白血球のように生きる」


また一つ、生き方のヒントをもらったような気がします。


※写真は山北町大野山の山頂に咲いていた10月の桜。
先日、夫が山歩きしながら撮影したものです。白血球の
助けがなくても、花は清らかに咲いていますね。

最上のわざ

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今日は一日早い、敬老の日の礼拝に行ってきました。
恒例のプレゼントは、まだ教会で決められた基準(笑)に達して
いないので、いただくことはできませんでした^^; いただいたら
いただいたで、ちょっと複雑な気持ちになるかも‥ですが(;´∀`)

さて、今日の礼拝説教は旧約聖書詩篇71篇からでした。
説教題は「神に希望を置く人の祈り」。

高齢になっても、人に迷惑をかけたくないがために、
自分で何とか解決しようとする人は多いと思います。そのために
ふだんから節制し、健康維持に努める姿勢は素晴らしい!
でも、一人では解決できない衰えを自覚したときは、神様に
また傍にいる人に、助けを求めて良いのだと詩人は言います。

神である主よ
あなたは私の望み
若い日からの拠り所。
‥‥
年老いたときも 私を見放さないでください。
私の力が衰え果てても 見捨てないでください。
          (詩篇 71篇 5-9節)

衰えと共に、「神はあなたを見捨てた」と囁く声を、おそらく詩人も
聞いたことでしょう。しかし、それでもなお成長することを望み、
救いの経験の素晴らしさを、後の世に伝えたいと願う詩人に、
成熟した信仰者の姿を見ることができます。

年老いて 白髪頭になったとしても
神よ 私を捨てないでください。
私はなおも告げ知らせます。あなたの力を世に。
あなたの大能のみわざを 後に来るすべての者に。
          (詩篇 71篇 18節)

老いは誰にでも平等にやって来ます。だからこそ、この詩人を模範に、
迫りくる老いに抗わず、受け入れ、神様に委ねて生きる、そのような
生き方を選び取っっていきたいものです。

説教の中で、「最上のわざ」という詩が紹介されました。
上智大学の学長を務められたヘルマン・ホイベルス神父が、
著書「人生の秋に」の中で紹介している詩(作者不明)です。

     「最上のわざ」

この世の最上のわざは何?
美しい心で年をとり、働きたいけれども休み、
しゃべりたいけれども黙り、失望しそうなときに希望し、
従順に、平静に、おのれの十字架を担う――。
若者が元気いっぱいで神の道を歩むのを見ても、妬まず、
人々のために働くよりも、謙虚に人の世話になり、
弱って、もはや人のために役立たずとも、親切で柔和であること――。
老いの重荷は神のたまもの。
古びた心に、これで最後の磨きをかける。
まことのふるさとへ行くために――。
おのれを この世につなぐ鎖を 少しずつ外していくのは、真にえらい仕事―。
こうして何もできなくなれば、それを謙虚に承諾するのだ。
神は最後にいちばんよい仕事を残してくださる。それは祈りだ――。
手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。
愛するすべての人の上に、神の恵みを求めるために――。
すべてをなし終えたら、臨終の床に神の声を聞くだろう。
「来よ、わが友よ。我、汝を見捨てじ」と。

合掌すらできない場合もあるでしょう。それでも私たちは、
神様に感謝の祈りを捧げることができます。愛するすべての人の
ために祈ることができます。祈りは、私たちに与えられた最上の
プレゼントであり、わざなのですね。

※写真は14日(金)、孫の幼稚園の敬老会でもらったコースター。
 タマちゃんが一生懸命、作ってくれました。

子どもに教えられること

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818日は夫の誕生日。
毎年、家族が集まり、誕生日をお祝いします。
孫たちは親より一足早くやって来て、ひと遊び。
今どきの子ではあるけれど、かなり自由気ままな自然児の二人。
型にはまらない、独創的な遊びを見つけて楽しんでいます。


この日はベランダに花が咲いているのを見て、色水作りに挑戦。
朝顔マツバボタンホウセンカなど、色が出やすい花を選びます。

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それにしても、自然の植物から溶け出した色水は美しい!


次は都電もなか遊び。 と聞いても、「???」。
東京銘菓に「都電もなか」というのがあり、甥っ子、姪っ子のために、
おじさん(長男)が、お土産に買ってきたことがありました。
都電の形をした箱にモナカが入った、“あるある”系のお菓子ですが、
その美味しさと、空き箱にすっかり魅入られた二人。その後も、
おじさんにおねだりして、集めに集めたモナカの箱は計31個。

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プラレールNゲージも持っているのに、紙で出来た都電に、これほど
夢中になれる感覚、とうてい大人にはないですよね。

夜は、おじいちゃんの好きな稲荷ずしとサラダ巻きで夕食会。

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食後には花火大会。5袋分の花火を、みんなで楽しみました。
そして、ケーキでハッピーバースデー!
残暑が厳しい日でしたが、中身の濃い一日でした。


パウロ・コエーリョの言葉に、次のようなものがあります。


 子供は常に、3つのことを大人に教えることができます。
 理由なしに幸せでいること。 何かで いつも忙しいこと。
 自分の望むことを、全力で要求する方法を知っていることの3つです。


暑さを理由にダラダラ、ゴロゴロと体をもて余している大人に比べ、
いかに子どもたちの生き生きしていること。もっと生きている実感を
味わいなさい、楽しみなさいと教えられるようです。


 「いずれそのうち という日はない」
一瞬、一時を無駄に過ごさないためにも、この諺を戒めとしたい
晩夏のひとときでした。。